撃ち殺される自由

気が向いたので個人日記をこちらにも転載。
 
Nike SBのスケートビデオがなんだか良い。
昨年の10月からスケートボードを始めて、それからスケートビデオは結構見るようにしている。
今年いっぱいに出たやつはメジャーなやつとかなるべく見るようにしてるのね。
 
それは、つまり、始めたばかりの今だから体験できる、吸収できるものがあるだろうから。
たとえばギターを始めたばかりの頃とか、
ロックを聞き始めたばかりのティーンエイジャーの頃、
その頃に聴いた音楽やバンドというのは、自分にとってすごく大きな影響というか当然基礎になっている。
 
それと同じで、始めたばかりの頃に見たものというのは、その後の自分のバックグラウンドというか基礎になっていくだろうから。
 
そして貴重なのは、
僕と同世代のプロスケーターの人たちは、すでにその世界ではとうの昔に伝説を作り上げたレジェンドで、
彼らが90年代とかに見ていたもの、当時見ていた時代背景とかバックグラウンド、
もちろん僕も同じ時代にティーンエイジャーをやっていたわけだけれど、
 
僕はその頃のスケートボードをまったく知らず、
2012年とか2013年になって、そこから知識の吸収を始めたということ。
当時と今の状況はまったく違う。
世の中の状況もだけれど、スケートボードをめぐる状況は、まったく違う。
当然、スケートボードをやることの意味合いも違っている。
 
つまり、自分はもういい歳でありながら、
現在、アメリカとかでスケートボードをやっている子供とかティーンエイジャーと、同じものを見ることができる。
まったく同じではないにせよ、似たような目線で、それらのものを体験できるというのは、かなりかけがえのない機会だと思うのだ。
自分の中に、20年くらいも年下の世代とかぶる部分を持つことができるのだから。
 
つまり、ティーンエイジャーの子たちと話しても、Sean Maltoの話とかで盛り上がれるわけでしょ。彼らにとってSean Maltoがアイドルなのと同じように、僕にとっても彼はアイドルなわけだから(笑)
 
で、スケートビデオを見てる。
Thrasherのウェブサイトでもいろいろ見れるし、
YouTubeにもあるし、
DVD買うと高いけど、今はiTunesで安く買えるでしょ。
 
当然GirlのPretty Sweetも見たし、
ClicheもDeathwishも、BlindもAlmostもZeroも見た。
Heroinの日本勢は熱かったし、BonesとかBaker、Creatureとかは無料ダウンロードで見れたし。
Darkstarのも良かったね。
あと無名のところから出てるビデオもいっぱいThrasher経由で見れたよね。
 
それらの映像は、当然ながら、使われている音楽という面でも刺激があるんだけれど、
 
で、なんの話だったかというと、
Nike SBの今月出たビデオが、なんだかちょっと良い。
 
良いっていうわけじゃないんだけれど、なんだか良いんだよね。
さすがにNikeみたいな大企業にスポンサーされているスケーターたちは、
他のブランドのスケーターたちと比べても、やっぱり技術的にちょっと頭ひとつ抜けているという感じがするし、
これが今の世界のいちばん技術的にトップというかカッティングエッジなスケーターたちなのかな、という。純粋にトップオブザトップ。
 
決して凝ったビデオではなく、普通にシンプルなスケートビデオなんだけれど、プロダクションの質は良いし、そしてなんだか映像が明るい。機材の関係なのか何なんだか。
 
それは、なんだかスケートボーディングの世界の、明るい未来を示しているようで、
いや未来の世代たちの新しい自由を示しているようで、
なんだか明るい気持ちに、させてくれるのだ。
たぶん考え過ぎだけど。
 
 
なにが言いたいかというと、
実際のところ、スケートボーディングの世界では、
少なくとも90年代までは、スケートボーディングなんていうものは、
マイナーでアンダーグラウンドな、カウンターカルチャーっていうか、
カウンターなものだったんだよね。
 
でも、それがだんだん、メジャーな、メインストリームなものになっていって、
(アメリカとかの話だよね。日本ではぜんぜんだよね。)
そこに、Nikeとか、Addidasとか、最近ではNew Balanceとか、
そういう大企業が参入してくるようになった。
 
そう、靴の話か。
スケーターって、スケートボーディングって、
すごく激しく、頻繁に靴をはきつぶすから、
シューズメーカーというか靴の会社からしてみたら、
たぶんすごい美味しいマーケットだと思うんだ。
だから、靴を作る企業からしてみたら、参入しようとして当然だという気はする。
 
 
Nikeみたいな大企業が、DIY精神を大切にするアンダーグラウンドな
スケートボーディングみたいな世界に参入するにあたって、
controversialな批判とかいろいろあった、とネットには書いてある。
実際にNikeは過去に一度スケートボーディングに参入しようとして失敗した過去があるとのこと。
 
しかし今ではNike SBはスケートボードシューズの中でもやはりいちばんメジャーなブランドのひとつになったわけだ。
それは、やっぱり、大企業だし。
あるいは、その事実こそが、スケートボーディングが、アンダーグラウンドなものではなくて、メインストリームなものになったということの証かもしれないけれど。
 
 
Thrasherのページに書き込まれたコメントを見ると、
やっぱり今でも、Nikeみたいなメジャーな企業が、スケートボーディングの世界で商売やってるってことに対しては、批判とか拒否反応があるみたい。
 
それはそれでとても健全な反応だと思う。
 
実際に僕も、NIKEの製品、いいんだろうけど、Nike SBの靴を自分で履こうとは一切思わないし。
だったらまだLakai履くよ、って思うでしょスケーターの人たちって。
 
ちなみに僕はFallenしか履かないって決めてるけどね、初心者なりに。
 
実際に、今回のNike SBのビデオ”Chronicles 2″だっけ、も、
やっぱり、ハードコアなブランドのビデオとくらべると、
ちょっと弱いっていうか、watered downされたところがあるし、
センスが必ずしも良いわけじゃない部分もある。
 
でも、やっぱり、その、トップ中のトップの最先端なスケーターで構成されたビデオを見ると、
やっぱり凄いな、と、思う。
それは、企業パワーというか、たとえばちょっと前に見たEric KostonモデルのCM映像を見ても思ったし。
タイガーウッズとかのオールスター総出演だったし。
 
 
で、俺はこれは健全な状態じゃないかと思うわけだ。
 
つまり、たとえば90年代とか、まだスケートボーディングがアンダーグラウンドだったとき、
Nikeは参入できなかった。
 
それは、まだ早すぎたからだよね。
誰にとって早すぎたかというと、スケートボーディングにとって早すぎた。
 
でも、2000年代になり、スケートボーディングが、アンダーグラウンドで成熟し、メインストリームになる準備が出来てきたとき、
そのとき、Nikeは参入した。
 
世の中の商業主義とかメインストリームのもろもろを、受け入れても大丈夫なくらいに、スケートボーディングは既に成熟していた、ということだよね。
 
 
結局、そうね、ロックでもそうだけど、商業主義とか、世の中のあれこれを受け入れるというのは、
タイミングの問題なのかもしれない。
 
 
十分に成熟し、コアな人たちの手を離れても大丈夫なくらいになったのであれば、
それは商業主義や世の中のあれこれを受け入れるのは、健全なことだ。
そして現在のスケートボーディングの世界に、商業主義があるのも健全なことだ。
(たぶん)
 
(わかんないけどね。Nike SBは、小売店に対して、すごく不利な取引を強要しているらしいから、ちょうどAppleみたいに、個人経営のローカルなスケートショップがそのせいで廃業していく、みたいな面があるみたいだし。)
 
けれども、そのスケートボーディングの世界の中に、いまでも、skater ownedというのか、for the skaters by the skatersみたいな価値観があるのも、とても健全なことだ。
 
アメリカ行ってスケートパークとかいくつか見たりすると、
これって完璧に「宗教」だよね、と思ったりしたけれど、
 
それは、ロックやヘヴィメタルが宗教であるのと同じ意味合いでね。
 
そう思うと、スケートボーディングは、
ロックやヘヴィメタルから見てもうらやましいほどに、
「コア」で「健全」な宗教くささをキープしているように思う。
 
それは、時代が進んでも、
音楽やギターと違って、
「身体」というか「肉体性」の部分が多いからだろうか。
脳みそによる間違った解釈の余地が少ない。
 
日本ではまだ「定着」していないから、
スケートボードと言っても
ファッションやカルチャーみたいな
「脳みそ」で解釈する部分が大きい、
もし日本のスケートシーンに限界があるとすればそこだけれど、
たぶんそれも変わっていく、のか?
 
 
で、何が言いたいのかというと、
政治とか民主主義についてのことなんだ。
 
俺は、自分の音楽やバンドとともに、
日本という国についてなんだか祈ってきた。
それは、日本でクリスチャンなんかやってるとどうしてもそうなる。
 
で、そしたら震災とか原発事故とかあって、
それ以降、この国が変わったか、変わらないか、といったら、
それはやっぱり変わった。
 
予測はしてたしわかってたけど、
最近の政治とかなんとかいう法律とか、
どうにも右寄りな方向の状況に、
息苦しさを感じたりもするのだけれど、
 
そこには、現在の日本という状況、
(これは、ロックや音楽をめぐる状況を含む、というか、むしろ本質的にロックや音楽をめぐる状況のこと)
現在の民主主義の枠組みの限界、
そういったものに対する落胆や絶望があるわけだ。
 
まあ、今に始まったわけではなくて、
最初のスタート地点の時点ですでに、
そういったものに絶望しきっていたからこそ、
僕たちは音楽をやっているわけなんだけれど、
 
じゃあね、現在の民主主義の枠組みというかシステムが、
うまく機能していないとして、
じゃあそれを超えた、未来の民主主義、
より優れた民主主義は、どんなものですか、って言ったら、
 
それはもう見えてきてるんじゃないかって。
震災以降、原発に対する反対運動なんかでデモが頻繁に起きるようになった。
今回の秘密法案でもデモがあった。
僕も原発のデモには何度か参加してみたけれど、
 
こういうことって、それ以前にはなかったことだった。
平和で何もない時代に生まれた僕たちの世代にとっては、
こんなことって、ありえないはずのことだった。
 
それが起きてる。
 
インターネット、facebookやtwitterで、議論がかまびすしい。
インターネットで署名を集める市民運動も広がっている。
 
未来の、より新しい民主主義があるとしたら、
たぶんそれはこの延長にある。
それは、もう始まってるんじゃん、って。
 
形じゃないんよね。
中身なんよ。
 
これは健全なことだと思うんだ。
そういった流れに対して、批判をするのも健全。
 
僕は、今度の法律にしても、
今の政治家の人たちや、政府の人たちがやっていることが、
正しいのか、間違っているのかはわからない。
 
基本的に、権力の座についた当事者にしか、わからないことがあるし、
国を治めるってことは、どうしてもきれいごとではないだろうから。
 
ただ、最近ちょっと右寄りな流れになっているといっても、
アメリカあたりの右寄りからくらべたら、まだぜんぜん左側にいるし、
それにもかかわらず、
それでもなお世間が黙っていない、
それぞれの立場から黙っていない。
これはかなり凄いことかもしれない。
 
わからない、
楽観はしていないし、
世界情勢を楽観もしていない。
どちらかというとかなり悲観してる。
 
でも、最悪を思うとき、
日本は、本当の意味で市民革命みたいなものは経験してこなかった。
 
戦後の平和が「嘘っぱち」のかりそめのものであったのは、
それが与えられたお仕着せのものだったからだろう。
 
だから、あるいはそういった出来事が、これからこの国に起こるのかもしれない。
なるべく血を流さずに起きてくれたらいいんだけど。
僕らは21世紀に生きているのだから。
 
21世紀って、もっと進歩した世界だったはず。
 
 
つまり、Nike SBの話からいきなりそれたのは、
日本の民主主義が、こういったことに耐えられるほど、
成熟してきたのだということを、
思ったから。
 
だから、これが始まりなんじゃないか。
 
だんだん、これが、「当たり前」になっていく。
 
こういったことを無視できない世界になっていく。
 
それが当たり前の世代が、これから生きていくのだから。
 
 
 
わかんない。
僕が、いつも思っていたのは、
可能性っていうことについてだった。
 
人間が持つ、素晴らしい未来への可能性。
21世紀の最初の10年は、僕にとって、Let Downでもあったし、
期待以上の部分もあった。
 
ただ音楽について見ても、社会を見ても、
ここ10年くらい、日本は僕をLet Downさせ続けている。
 
なんだかここ数年、日本の社会全体が、Uターンして昔に戻っていっているみたいなのも、
未来に向かっていく、その途中で、壁を超えられなかったからのように僕の目には映っている。
 
その壁は、霊的な壁だ。霊的っていうと、ちょっとクリスチャン的でわかりづらいけど、精神的なところというか、マインドでありスピリットの部分だ。
 
結局のところ、人は、社会は、民族は、国は、その霊的にふさわしいところまでしか発展できないし、そのふさわしいところへ落ち着いていく。それはそこが居心地がよいから。
 
霊的に発展できなければ、それ以上の科学技術や、テクノロジーや、社会制度や、文化水準を、獲得することはできない。
 
日本の社会は、21世紀初頭のある時点で、その壁に突き当たり、それを超えられず、引き返したように僕の目には映る。
それは、霊的な限界だ。
社会全体の。
 
でも、引き返さなかった人たちもいる。
多数派ではないけれど、いる。
その証拠を、いくつか僕も持っている。
 
願わくば、彼ら同世代の同時代人たちが、
新しい日本を切り開いていってくれることを。
 
 
わかんない、自由っていうのは、勇気のいることだ。
 
これは僕が思うことで、
どうしても言っておきたいけれど、
 
たぶんアメリカ人がFreedomっていうとき、
それは、銃で人を殺す権利のことを指していると思う。
 
けれども、
日本人が自由という言葉を発するとき、
それは、銃で撃ち殺される自由を意味している。
 
だから、日本人にとっての自由はハードルが高い。
アメリカ人がフリーダムっていうよりもたぶん。
 
それでも、ひるむことのない
勇気と高潔さを持った人たちだと、
僕は信じている。
僕が思う日本人という人たちは。
 
だいたいね。
 
犠牲になってやりゃいいじゃん。
世界のために。
 
 
どちらにしても、
僕は僕らは、
始めたときに既に思っていた。
 
お先に新しい世界へ行きますよって。
 
ぶっちぎりです。
 

 

これからですよ。
 
Tak “Tone” Nakamine / Imari Tones

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