Imari Tones discography and history (Japanese)

昨年、私たちはコンセプトアルバム”Jesus Wind”のリリースに先駆けてクラウドファンディングを行いました。
 
そこで支援をしてくれた方々のために、私たちは「全アルバムダウンロード」のパッケージを提供しました。
 
とてもクレイジーに聞こえるかもしれませんが、私たちのバンドは、かなり膨大なアルバムのカタログを持っています。どのように数えたらいいのかわかりませんが、”Jesus Wind”は一応、私たちの16枚目のスタジオアルバムということになるようです。私たちは日本の無名のインディーバンドに過ぎませんが、音楽を作ってきた相応の長い歴史があります。
 
そのバンドの歴史について説明するために、私たちはこのダウンロードパッケージのために、ちょっとしたライナーノーツを書きました。
 
私たちのウェブサイトには、以前書いたヒストリーのページがありますが、
このライナーノーツは、良いアップデートであり、また私たちの歴史や経歴について説明する良い機会ですので、その内容をここにポストすることにしました。
 
 
 
 
Imari Tones 全アルバムダウンロードパッケージ、ライナーノート
 
ハロー、Imari TonesのTakです。
この”Jesus Wind”のコンセプトアルバムのために、IndieGoGoキャンペーンで私たちを助けてくれてありがとう。
皆さんの手助けが無くては、私たちはこのアルバムをふさわしい形でリリースすることは出来ませんでした。
 
ここに、私たちの感謝の印として、全アルバムダウンロードのパッケージを用意しました。
けれどもこの機会を使って、私たちのバンドのヒストリーについて、少しだけ説明させてください。
 
なぜなら、僕たちは日本の無名のインディーバンドではあるけれど、音楽を作ってきた長い経歴があり、たくさんのアルバムを作ってきたからです。何の情報もなしには、これらのアルバムを理解するのが難しいかもしれませんので、これを書くことにしました。
 
 
1st era: Takのセルフレコーディングプロジェクト (1999 – 2002)
 
 

 

 

 
 
アルバム:
Prototypes (1999)
Kodomo Metal (1999)
Entering The New World (2001)
 
 
 
 
ラインナップ:
Tak “Tone” Nakamine: ギター、ヴォーカル、あと色々全部
 
 
 
Imari Tonesは、いつ始まったのでしょうか。
私にとっては、これは答えるのが難しい質問です。
なぜなら私自身にも、いつ、どこで始まったのか、よくわからないからです。
私はいつも、バンドは公式には2004年あたりに結成されたと言うことにしています。けれども、実際にはそれよりも前にも歴史があります。
 
「始まり」についてのひとつの定義として言うことが出来るのは、おそらく1998年でしょう。その時に、私はウィンドウズのコンピューターでCubaseVSTを使い、音楽の録音制作を始めました。
 
「なぜ」音楽を作り始めたのか、その理由を聞くのはやめてください。なぜなら、自分でもその理由はわからなかったし、きちんと答えることが出来なかったからです。
けれども、それはロックスターになりたいとか、そういった理由ではありませんでした。自分がそういったものになれる立場に無いことはよくわかっていたからです。ですから私は何の成功も望んでいませんでした。それは、純粋に自分自身のセラピーだったのです。当時、私は人生の中の個人的な理由により「神経衰弱」の状態にありました。私は何もできませんでした。その時、大学の学生でしたが、日本の社会のシステムから外れてしまったように感じていました。その時に出来た唯一のことが、音楽を録音して制作することでした。それは自分にとってのセラピーでした。とても個人的なことだったのです。
 
その当時は、それはまだバンドではありませんでした。それはただの個人のプロジェクトでした。当然の帰結として、私はライブ演奏などは行いませんでした。ただ自宅録音を行っていただけです。まだバンド名、プロジェクト名といったものはありませんでした。ですが、私はもし自分のバンドに名前を付けるのであれば、”Imari” (伊万里)という言葉を使おうと決めていました。それは私の妻の名前でした(当時はまだ結婚していませんでしたが)。それはユニークで美しい名前というだけでなく、日本の伝統的な響きを持っていました。私は高校時代に1995年に彼女に出会いましたが、彼女はそれ以来ずっと私の側で、この瞬間にも隣で微笑んでいます。
 
 
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この時期に、私は”Prototypes”、”Kodomo Metal”、”Entering The New World”を作りました。
 
これはすべて、出来の良い作品ではありますが、その中でもひとつ突き抜けているのは”Kodomo Metal”であろうと思います。友人の中には、この”Kodomo Metal”が、私が今まで作った中でも、未だにベストの作品だと言う人もいます。
 
自然なこととして、これらの作品の歌詞はすべて日本語です。
 
(私は1998年に、”Through The Garden of Gods”と名付けられた作品を作っています。厳密に言えば、それが最初のアルバム、ということになるでしょう。けれども、そこに収録された曲は、後に別のアルバムで再録音されたりと、内容がややこしく整理出来ていない状態になっています。私たちは、そのアルバムを「リメイク」する計画を持っていますが、現時点ではこのパッケージには含めないことにしました。)
 
 
 
 
 
 
2nd era: Imari Tonesが結成される (2004 – 2005)
 
 
 

 

 
 
 
アルバム:
The Record of Live 2004 (2004)
Hero of the Light (2005)
 
 
 
 
 
ラインナップ:
Tak “Tone” Nakamine: ギター、ヴォーカル
みねっち: ベース、バックグラウンドヴォーカル
はらっち: ドラムス、バックグラウンドヴォーカル
 
 
 
さて私は状態がよくなり、働き始めました。東京に仕事を見つけてそちらに移り住みました。
仕事は4ヶ月しか続かず、私はパートタイムの料理人として働く羽目になりましたが(良い大人の見本とは言えません)、けれどもひとつ良いことがありました。それはバンドを結成することが出来たことです。
 
私は志を同じくするミュージシャンたちと知り合い、一緒にジャムりました。私は自分がシンガーになるのか、ただギタープレイヤーになるのかまだわかりませんでした。私はきちんとしたリードシンガーを見つけて自分はギターに集中したかったのですが、なぜだかいつもギターを弾きながら自分で歌う羽目になりました。
 
私はギタープレイヤーや、ベースプレイヤーや、ドラマーたちとジャムりました。それは上手くいく時もあれば、そうでない時もありました。私が、しかるべき形でバンドのメンバーを見つけたと感じたのは2004年の2月の事でした。それはスリーピースのバンドでした。パワートリオというやつでしょうか。
 
イマリトーンズの最初のラインナップは、
Tone (私のことです。Toneというのはニックネームです): ギター、ヴォーカル
みねっち: ベース
はらっち: ドラムス
というものでした。
 
私たちは東京のライブハウスでライブ活動を始めました。
私たちはエナジーと創造性に溢れており、パワフルに演奏しました。
それはとても素晴らしい時間であり、私は今でも、この時のバンドが音楽的に優れていたことに自信を持っています。
けれども、最終的には私たちは観客から良い反応を得ることが出来ませんでした。
 
これにはいくつかの理由がありますが、私が思うに、いちばんの理由は私がメッセージを伝えようとしていたことだと思います。
私は社会的な、政治的な、ときにはスピリチュアルなメッセージを、観客に伝えようとしていました。
けれども、ほとんどの場合、それは重過ぎるもので、日本の観客はそれらを好みませんでした。
 
 
—-
 
この時期に、私たちは”2004年の演奏活動の記録”と”Hero of the Light” (光のヒーロー)を制作しました。
“Hero of the Light”は、私にとって最初の本当のバンドと言えるアルバムであり、私はそれをとても誇りに思っています。これこそが日本のロックバンド、という感じです。
 
音楽性について言えば、私たちは、ハードロック、オルタナティヴ、パンク、J-Popの中間地点のどこかといった感じでした。歌詞はすべて日本語でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
3rd era: ほんの短い期間、Takが一人で録音
 
 
 

 

 

 

 
 
 
アルバム:
Heterogeneous Species (2005)
Reluctant Savior (2005)
Color of Hers (2005)
fireworks (2005)
 
 
 
 
 
 
ラインナップ:
Tak “Tone” Nakamine: ギター、ヴォーカル、ドラムと、あとほとんどすべて
 
 
 
さて、[Tone、みねっち、はらっち]のバンドのラインナップは、2005年3月で解散になりました。
こういったことは、たとえバンドが音楽的にがんばっていても起こるものです。人生はそういうものです。
では、次にどうしたらいいでしょう。
私がその次にしたことは、さらに多くの音楽を作ることでした。
 
バンドで音楽を作るのはとても楽しいものでしたが、私はある面では制約があるようにも感じていました。
今やバンドがブレイクアップしてしまったので、私はこれをより自由に音楽を作る良い機会だと思いました。
2005年の6月から12月にかけて、私はほとんど一人で50曲の録音をしました。
私はギター、ベース、ピアノを演奏し、歌い、ドラムも演奏しました。
前ドラマーのはらっちをはじめとする幾人の友人が、バックグラウンドヴォーカルを手伝ってくれました。
どうやって、こんな短い期間で50曲も録音できたのでしょうか。
それは自分でもわかりません。若かったからでしょうか。
 
確かに、その中には完璧ではないものもあり、そのうちのいくつかについては何年も後になってから「リミックス、作り直し」をすることになったり、ボツになった曲もありましたが、それでも私はほんの7ヶ月の間に4枚ものアルバムを作りました。
それは、”Heterogeneous Species” (異能レース)、”Reluctant Savior” (無責任なメシア)、”Color of Hers”、”fireworks”の4枚です。
 
本当のことを言えば、私は音楽をやめるつもりでいました。頭の中にある曲をすべて録音してから辞めようと思っていたのです。
けれども、現実には何かが起こり、そして私の人生計画は、またもや違った方向に行ってしまいました。
 
 
 
この時期に、私(私たち)は”異能レース”、”無責任なメシア”、”Color of Hers”、”fireworks”を制作しました。
 
これらのアルバムには、私が10代の頃や、高校時代に書いた曲がたくさん含まれています。それらの中には、とてもパーソナルで個人的な曲もあります。
“異能レース”と”無責任なメシア”は、2015年にサウンドの改善のために「リミックス、再構築」されました。人によっては”Color of Hers”を、ハードロックの古典であるとか、日本のツェッペリン、みたいに言って評価してくれる人もいます。けれどもさすがに自分ではそこまで自信がないので、聴いてみて判断して下さい。
歌詞はすべて日本語です。
 
 
 
 
 
 
4th era: 二人のプロデューサーと、ドイツでのレコーディング (2006 – 2007)
 
 
 
 
 
アルバム:
Japanese Pop (2006)
 
 
 
 
 
ラインナップ:
Tak “Tone” Nakamine: ギター、ヴォーカル
Baba-kun: ベース
はらっち: ドラムス
 
 
 
2005年の12月に、Takは著名な日本のミュージシャン/プロデューサーであるTak Yonemochi氏に出会いました。
その人物はAir Pavilionというバンドのギタリストであり、また有名な音楽ジャーナリストでもありました。
彼は世界中のギターヒーローにインタビューをして、彼の書いた記事は日本のロック雑誌にたくさん載っていました。
もしあなたが1980年代や1990年代に日本にいて、ハードロック、ヘヴィメタルを好きだったら、おそらくあなたは雑誌やCDのライナーで、彼の記事を読んだことがあるはずです。
 
自然な流れとして、私はその人物と音楽制作をすることになりました。突然、物事はプロフェッショナルになり、有名なプレイヤーを雇ってレコーディングするなどの計画が持ち上がりました。
けれども、有名なミュージシャンを雇うよりも、私は本来のバンドの形にする方を望みました。
ドラマーのはらっちはバンドに戻りました。彼は、もう一度だけ、音楽制作に全力を注ぐことにしたのです。そして私はBabaくんというベーシストに出会いました。彼はロックというよりはジャズプレイヤーで、ライブパフォーマーというよりはスタジオガイでしたが、とても優秀なプレイヤーでした。
 
 
私たちはTak Yonemochi氏と一緒にレコーディングを始めました。プロフェッショナルなスタジオで、立派な機材を使ってです。Yonemochi氏は、オールドファッションなアナログ録音の信者だったので、それらの録音はアナログテープを使って行われました。
 
Yonemochi氏は、「海外のマーケットに向けてやらなければいけない」と言いました。それは氏によれば、本物のロックは日本国内のマーケットでは受け入れられないからでした。私は、「ええ、マジですか?」と言いましたが、結局は納得し、そしてそれ以来、私たちはインターナショナルなマーケットに向けて活動しています。
 
Yonemochi氏は、「君は英語で歌う必要がある」と言いました。私は、「自分は日本語で歌いたいです。それが母国語ですから。」と言いましたが、確かに国際的なマーケットに向けて発信するのであれば、英語で歌った方が良いのは事実でした。なので、それ以来、私は英語で歌い始めました。
 
Yonemochi氏は、「君は自分の音楽のルーツに戻る必要がある。それは1980年代のヘヴィメタルだ。」と言いました。私は、「そうは言っても、ヘヴィメタルは今では時代遅れです。」と言いました。けれども、結局彼は正しかった。私の一番大きな影響はVan Halenであり、その影響を隠すことは出来ませんでした。なので、それ以来、私たちはストレートなヘヴィメタル、ハードロックを演奏することにしました。
 
そのようにして、私はYonemochi氏から色々なことを学びました。彼はロックスターの友人であるRATTやMotley Crueの面白い話をいろいろとしてくれました。(それは本当で、Yonemochi氏はRATTのフォアン・クルーシェと一緒にレコードを作っていたのです。)
 
2006年の9月に、もうひとつのことが起こりました。Yonemochi氏は世界中にたくさんのミュージシャンの友人を持っていましたが、その一人であるドイツの友人に電話をしたのでした。その人物はサシャ・ピート(Sascha Paeth)という名前で、AngraやRhapsodyやKamelotなどのバンドを手がけた、ヘヴィメタルの世界では有名なプロデューサーでした。
Sascha氏はYonemochi氏と合意し、私たちはドイツへと飛びました。私たちはドイツのWolfsburgにあるサシャ氏のスタジオへ行き、そこで3曲の録音をしました。それらは”Karma Flower”、”Iron Hammer”、”Skies of Tokyo”という曲です。それはとても大きな経験でした。
 
さて、2006年が終わるまでに、私たちはフルアルバムを作るだけの楽曲をレコーディングしていました。アルバムが出来たので、それをリリースするためのレコード会社を探さなくてはいけません。なので私たちはレコード会社にコンタクトしましたが、うまくいきませんでした。Yonemochi氏の影響力は1980年代や1990年代には大きなものでしたが、2000年代になってヘヴィメタルの人気は衰えていました。特に日本において新しいバンドがキャリアを作ることは、とても難しいことでした。
 
Yonemochi氏は、「アメリカに行く必要がある。そこには君にとってもっとチャンスがあるはずだ。君の音楽はヨーロッパよりもアメリカ向けのメタルだから。」と言いました。そして私たちはアメリカに行きました。それは2007年の3月のことで、それはバンドの皆ではなく、私とYonemochi氏の二人で行ったのでした。私たちはテキサス州オースティンへ行き、そこでSXSW(サウスバイサウスウエスト)に参加しました。それは世界でも最大の音楽コンベンションのひとつでした。私たちはそこで、音楽業界の人たちに会おうとしたのです。
 
Yonemochi氏は音楽業界にたくさん友人を持っていたので、私たちは確かに何人もの重要な人物に会うことが出来ました。けれども、物事は簡単には進みませんでした。私は、もしこのSXSWで何も起こらなければ、音楽を辞めようと考えていました。
 
けれども、何かが起こりました。
私は世界中から集まった、たくさんの素晴らしいインディーバンドを見たのです。今はどのような様子かわかりませんが、その当時、SXSWというのはインディーミュージックの祭典としての色彩を強く持っていました。SXSWの最終日に、私はニューヨークから来たひとつの素晴らしいインディーバンドを見て、その音楽に夢中になりました。私は、「僕もこのようなインディーバンドをやりたい。ビッグにならなくてもいい。世界でいちばん良いインディーバンドになりたい。」と思いました。そして「私はこの場所へ再び戻ってきて、このテキサス州オースティンで演奏したい。」と思いました。
 
さて、ですので私はやっとわかりました。音楽で重要なのは、ビッグになったり成功することではなくて、どのようにそれを演奏するか、ということなのです。どれだけ自由に音楽を演奏することが出来るか、ということなのです。それは成功しようとしまいと、音楽とともに生きるということでした。
 
レコード会社を見つけることは出来ませんでしたが、その代わりに、よりはっきりとしたヴィジョンを、新たな目標を私は見つけました。私はインディーバンドになりたかったのです。そして、より純粋な音楽家になりたかったのです。そして私はプロデューサーから自分のバンドを返してもらうことに決めました。あるべき形でバンドをもう一度作りたかったのです。なので、私はゼロから再スタートすることに決めました。
 
私たちは、このラインナップで片手で数えるほどのライブをこなした後、Yonemochi氏に別れを告げて、そして私ははらっちとBabaくんにも、自分はバンドを再スタートすることを告げてお別れを言いました。
はらっちは大正琴を作る職人になり、Babaくんはきっとプロフェッショナルなジャズベーシストになっていることと思います。
 
 
 
この時期に、私たちは”Japanese Pop”を制作しました。
 
これは、私たちにとって最初の、そしておそらくは唯一の「プロフェッショナルに作られた」アルバムです。
可愛らしいアートワークや、タイトルのおかげで、このアルバムは今でも私たちの作品の中でも人気がありますが、けれども私は個人的にはこのアルバムの出来には満足はしていません。
一番の問題は、私とプロデューサーとの間のコミュニケーションが完璧ではなかったことで、それによって、このアルバムにおける私の演奏や歌唱は、あまりベストな状態とは呼べないものでした。
けれども、アルバムの選曲はそれまでの活動のベストソング的な内容ですし、そしてこのアルバムのアナログ録音のサウンドはこの作品を特別なものにしていると思います。中でも「Winning Song (Japanese version)」は、これまで私がバンドで作ってきた中でも、ベストなもののひとつであると思います。
 
ドイツにてサシャ・ピート氏のもとで録音した3曲は、とても良い仕上がりになりました。中でも”Karma Flower”は私たちのバンドの曲の中でも人気曲になりました。(もっとも、私はそのメインストリームな音作りをあまり気に入っていませんが)
 
 
このアルバムに収録されている曲の多くは、実際のところ、それまでの作品で録音された曲の「再レコーディング」です。それを、英語の歌詞にして録音したのです。
たとえば”New World”は、”Big World”というタイトルでKodomo Metalアルバムに収録されています。
“Winning Song”及びThat’s Why I Love You”は”Hero of the Light”アルバムに収録されていた曲ですし、同様に”Speechless Speaker”も「美しいものを見よう」というタイトルで”Hero of the Light”に収録されていました。
また”Karma Flower”もfireworksアルバムに「初春恋風」として収録された曲です。
 
“I”と”Winning Song Japanese Version”以外は、歌詞は英語で歌われました。
 
 
 
 
 
 
5th era: クリスチャンバンドになる (2007 – 2008)
 
 
 
 
アルバム:
Welcome To The School (2008)
 
 
 
 
 
ラインナップ:
Tak “Tone” Nakamine: ギター、ヴォーカル
Hassy: ベース
Dr.Manzo: ドラムス
 
 
 
 
さて、有名なプロデューサーに別れを告げた後、私は特に大きな計画も何もありませんでした。
私は小さな規模でスタートしたかったのです。
私は心の中で2つの目標を持っていました。
1、ローカルバンドを結成し、ローカルバンドであり続ける
2、アメリカでコンサートをする。できればテキサス州オースティンで。
 
基本的には私はただのローカルバンドを始めたかっただけであり、お金を稼いだりするつもりはありませんでした。私は別に昼間の仕事を辞めたりはしませんでしたので、ご心配なく。
 
なので、それが私のしたことでした。ローカルなプレイヤーたちに会い、ローカルバンドを結成したのです。
数ヶ月もしないうちに、私はHassyというベーシストに出会いました。彼は感受性の強い人間で、私たちは意気投合しました。私はきっと彼とは長い間一緒に演奏することになるだろうと予感していました。
 
また私はドクター・マンゾウというドラマーと出会いました。彼は歳上でしたが、とても技術のあるドラマーでした。そして重要なことに、彼は自宅にスタジオを所有していました。なので私たちはリハーサルスタジオにお金を払う必要がなくなりました。やったね。
 
それは2007年8月のことで、私たちはどこにでもいる普通のローカルバンドとして演奏活動を始めました。
けれども、ワオ、何かが起こり、半年後には私たちは、どこを探しても他に無いようなバンドになってしまいました。それは、私たちは、「日本のクリスチャンメタルバンド」になったのです。
 
いったい何が起きたのでしょうか。
 
基本的にはそれは、私はついに音楽を演奏している理由を見つけたということでした。
そもそも自分がなぜ音楽を演奏していたのか、その理由がわかったのです。
それは神のためでした。
神様はいつでも私とともにいたのです。
私や、私の妻や、私のバンドとともにいてくれたのです。
そのことが、心の底から理解できました。
 
そして私は、その神様がイエス・キリストであることがわかりました。
すべての事がつながり、納得が行きました。
そして私は、自分の音楽を神様に捧げることに決めました。
それが自分の人生の使命だったのです。
 
私はいつでも、オーディエンスにメッセージを伝えようとしていました。
けれども、私はやっと、そのメッセージが何であったのかがわかりました。
それは神の救済だったのです。
イエス・キリストと、その十字架だったのです。
 
さて実際にはそれはこのようにして起こりました。
Dr.Manzoが、「たまにはアコースティックのライブに出て交流を広げてみたら」と言って、インターネットを通じてライブの情報を教えてくれました。
なので私は一人で出かけていって、そこで一人でアコースティックのライブ演奏をしました。
そこにはもちろん、他の出演者の人たちも居ました。そしてその中に、一人の女性のシンガーソングライターが居ました。その人は神について歌っていました。その人はゴスペルミュージシャンだったのです。
 
私は、「これは何だ」と思いましたが、すぐに自分の中で何かが動き始めるのがわかりました。
それがすべてでした。
私はそのシンガーソングライターの方とお話をして、そして彼女は私に聖書や教会の案内をくれました。そしてすぐに私はクリスチャンになる決心をしました。
 
結果として、Dr.Manzoは宗教的な物は好きではなかったのですが、こういった経緯のため、私はDr.Manzoにも感謝をしています。
 
 
私はバンドのメンバーに、自分はキリスト教徒になったから、クリスチャンヘヴィメタルを演奏したいと言いました。
ベーシストのHassyは、「オーケー、いいじゃないか」と言いました。
Dr.Manzoは、「私はあまり宗教とは関わりたくないから、それはやりたくない。けれども自分は良い人なので、この作り始めたアルバムが完成するまで、一緒に協力してあげよう」と言いました。(Dr.Manzoは良い人でした。)
 
なので、それが私たちがやったことでした。
突如として、私たちはDr.Manzoの自宅スタジオで、クリスチャンアルバムを作り始めていました。
普通の日本のバンドマンとしては、なんだか不思議な経験でした。
 
私は歌詞を英語で書きました。なぜならYonemochi氏と別れた後でも、私は彼の「世界を狙って行け」という志を受け継ごうと思ったからです。(私は今でも氏のことをミュージシャンとして尊敬しています。)
 
“Welcome To The School”と名付けられることになったそのアルバムは、ゆるい意味でのコンセプトアルバムでした。
それは2つのパートから成っていて、前半は”Our Side”と言って、この世界の現実や、人間の中にある疑いといったものに焦点を当てていました。後半は”His Side”と言って、神の真実や、より神を賛美するタイプの曲を収録しました。
 
厳密に言えば、結果的にこのアルバムは、キリスト教と、仏教的要素と、どこかニューエイジっぽい要素が混ざった、独特のスピリチュアルな内容のものになりました。
たぶん、普通の日本のバンドマンに、突然クリスチャンのレコードを作らせたらこうなる、というひとつの例と言えると思います。
 
典型的なクリスチャンのアルバムとはちょっと違いますが、けれども私は今でもこのアルバムの内容に誇りを持っています。
 
振り返ってみるのであれば、私は歌詞について自分の牧師さんに相談したことを、ちょっとだけ後悔しています。それは、もともと自分が意図していた内容と違うふうになってしまったからです。けれども、当時、私の英語は今よりもずっと下手だったので、英語の歌詞について手助けをしてくれる人が必要でした。
 
“Welcome To The School”は、私たちがクリスチャンバンドになってから作った最初のアルバムです。また、英語で歌った2枚目のアルバムでもあります。このアルバムの音楽性や、ソングライティングは高い水準で作られていると思いますが、けれどもこのアルバムはなぜだか私たちの歴史の中では忘れられがちな作品です。
 
その理由はおそらく、
– Dr.Manzoはバンドに短い期間しか在籍していなかったので、リスナーの方々はジェイクが加入した後のアルバムの方をより好んでいる
– アルバムの後半には神を賛美する曲がいくつも収録されているにも関わらず、アルバム前半は神への疑いを歌った曲が多いので、そのせいで良い印象を持たれない (逆の曲順にすべきだったでしょうか)
– ドラマーのDr.Manzo氏がこのアルバムのミックスを担当したので、ドラムの音量が大きい割に、ギターの音量が小さい。Imari TonesのアルバムからTakのギターを抜いたら、あまり多くのものは残らない。
などの理由でしょう。
 
なにはともあれ、この”Welcome To The School”が完成した後、ドラマーのDr.Manzoはバンドを脱退しました。さて、私たちは新しいドラマーを見つけなければいけません。このクリスチャンヘヴィメタルという使命を追求するために。
 
 
 
この時期に私たちは”Welcome To The School”を作りました。
 
このアルバムは私たちの作品の中で、それほど人気のある作品ではありませんが、それでも私たちがライブでよく演奏する重要な曲がいくつも収録されています。それは”He’s Still With Us”、”Only One Wish”、”First Pop”、”i love you, now ur on your own”などの楽曲です。
 
歌詞はすべて英語です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6th era: アメリカへ行こう (2009 – 2012)
 
 
 

 

 

 
 
 
アルバム:
Victory In Christ (2009, 2010)
Japan Metal Jesus (2011)
Heroes EP (2012, 2013)
 
 
 
 
 
ラインナップ:
Tak “Tone” Nakamine: ギター、ヴォーカル
Hassy: ベース
Jake: ドラムス
 
 
 
Dr.Manzoがバンドを脱退した後、新しいドラマーを探すのは難しかったでしょうか?
いいえ、それはとても簡単でした。
 
実のところHassyとJakeは過去にいくつかのバンドで一緒に演奏したことがありました。私たちがしたことと言えば、メールを一通送ることだけでした。
ジェイクがやってきて、私たちはリハーサルスタジオでジャムりました。
それで決まりでした。ジェイクはバンドに加入し、彼はクリスチャンミュージックを演奏するという案にも賛成でした。
ジェイクは2008年10月にバンドに加入して、そこからすべてが始まりました。
 
そして長いこと一緒に演奏することになる、[Tak – Hassy – Jake]のラインナップが集まりました。
おそらくはこれが、皆さんが知っているイマリトーンズではないでしょうか。
 
ここまで、私は既にとても長い話を書いています。
それに、このラインナップは過去の話ではありません。
今、現在進行形で起きていることです。
なので、話を短くしたいと思います。
 
私たちは馬鹿みたいに楽しいショウをすることができるバンドになりました。
私たちは4年連続でアメリカに出かけていってツアーをしました。
たくさんの素晴らしいライヴを行い、たくさんの素晴らしい時間を過ごしました。
いろいろな形で奇跡を体験しました。
いちばん重要なこととして、音楽的な形で奇跡を体験しました。
いくつかの最高のレコードを作りました。
アメリカで長く続いている草の根のキリスト教音楽ツアー”The Extreme Tour”に、日本のバンドとして初めて参加しました。
そして、たくさんの友達を作りました。
 
私たちは信仰において、スピリットにおいて強く成長しました。
けれども、アメリカにおいて、これらの「スピリットの勝利」を得ることが出来ても、日本ではそれを得ることは出来ませんでした。
 
けれども、その状況もすぐに変わることになりました。
 
 
 
この時期に、私たちは、
“Victory in Christ”、”Japan Metal Jesus”、”Heroes EP”を制作しました。
 
“Victory in Christ”は、私たちにとってはまるでファーストアルバムです。新鮮で、生々しく、情熱とエナジーに満ちています。私はこの純粋な情熱を、もう一度作れるとは思いません。
“Japan Metal Jesus”では、それはもっと楽しくなりました。日本のクリスチャンロックの可能性を示すひとつの例であり、また東洋と西洋、日本とキリスト教の文化のギャップを埋める橋のような存在です。
もしいくつかの曲を選ぶのであれば、もちろんすべての曲が私たちのフェイバリットですが、やはり”Faith Rider”と”Love Is To Do Something No One Dares To Do”が、ライブ演奏のセットリストの中で、特別な曲であり続けています。
 
ほとんどの曲の歌詞は英語ですが、一部の曲は、特にワーシップソングのタイプの曲は、日本語で歌ったり、日本語バージョンを作ったりしています。
 
 
 
 
 
 
7th era: 日本のバンドとしてのルーツを求めて (2013 – 現在)
 
 

 

 

 
 
アルバム:
Revive The World (2014)
Atomic Live (2015)
Jesus Wind (2016)
Overture (2017)
 
 
 
 
ラインナップ:
Tak “Tone” Nakamine: ギター、ヴォーカル
Hassy: ベース
Jake: ドラムス
 
 
 
2013年に、私たちは、少しばかり大きな決断をしました。
私たちは”The Extreme Tour”を日本で行うことにしたのです。インディースタイルのクリスチャンミュージックのツアーを、日本で行うことです。
 
最初、それは不可能に思えました。私たちが相談した人たちは誰もが、「それは不可能だ」と言ったり、「それにはとてもたくさんのお金がかかる」と言いました。
 
私たちはアメリカをツアーした時には最高の時間を過ごしましたが、日本では状況はとても違います。キリスト教をめぐる状況も、音楽をめぐる状況も、文化の状況も、すべてがまったく違います。
 
それは、日本での活動に集中するという決断でもありました。
もちろん、今後海外ツアーをしないという訳ではありませんが、何年かの間、私たちの優先事項は日本における状況を改善していくということに焦点が置かれました。
 
そして私たちは、”The Extreme Tour Japan”を、4年連続で行いました。毎年、アメリカや、カナダや、ロシアやチリからも、ミュージシャンを招きました。
私たちはこのハードコアで草の根なキリスト教音楽のツアーを、これらの海外のバンドと、それから日本のバンドと共に行いました。
私たちは、スピリチュアルな意味でも、音楽的な意味でも、壁を壊していきました。
 
気が付けば、私たちには世界中に、日本を愛し、日本のために祈ってくれる友人がたくさん出来ていました。
そして日本のクリスチャンロックバンドが集まり、同じ目標のために力を合わせて助け合うようになりました。
私たちはそれらのバンドたちと共に、クリスチャンロックを日本に根付かせるためにCalling Recordsを立ち上げました。
 
私たちはもう孤独ではありません。
日本においても、最高のライブが出来るようになりました。
 
そして、たくさんの変化がこの時期に起こりました。
いいえ、私たちは誰も死んだりしていませんし、子供が生まれたわけでもありません。(これは現代の日本ですので、ご理解ください)
けれども、音楽的にも、精神、魂の上でも、私たちは変化を経験していったのです。
 
2011年3月に起きた地震と津波の災害が、人生を変えたのでしょうか。
そうかもしれません。自分で知ることが出来る以上に、そういったことがあるでしょう。
日本や世界の政治をめぐる状況が、音楽に影響を与えたのでしょうか。
おそらくそうでしょう。
でも、それは悪いことでしょうか。
 
気が付けば、私たちは日本のミュージシャンとして、音楽的な、そして魂や精神の上での、音のアイデンティティを探し求めていました。
突如として、私たちは日本製のギターやベースにこだわるようになり、Takは日本の伝統的な音階を勉強し始めました。
 
私は、いつか日本の歴史についてのコンセプトアルバムを作りたいと言っていました。日本の歴史をクリスチャンの視点から見たアルバムです。私はそれをいつも言っていましたが、けれども実際にそれが可能だとは思っていませんでした。それがどのような内容になるのか、まったくわからなかったからです。
 
けれども、ある日、私はヴィジョンを見て、3日の間にそのほとんどすべての曲を書いてしまいました。(正確には2013年12月31日から2014年1月2日にかけてです)
 
そんな訳で、私たちの最新のアルバム”Jesus Wind”は、私たちの日本のバンドとしての魂の追求の結果です。
このアルバムはおそらく、私たちが作ってきた中で、いちばん重要なものであると思います。
 
私が思うに、おそらくこれが私たちのキャリアの中での音楽的なピークでしょう。
けれども、私はまだスピリチュアルな(魂の)ピークには達していないと感じています。
魂の深いところ、とでも言うべきでしょうか
 
私にとっては、これがやっと始まりです。
それが私たちが、次のアルバムを”Overture”と呼ぶことにした理由です。
 
“Overture”は全曲日本語のアルバムになります。
すべての曲は日本語で歌われています。
私たちがバンドとして全曲日本語の作品を作るのは、ずいぶんひさしぶりのことになります。
実のところ、クリスチャンバンドになってからは初めてのことです。
それが海外のリスナーの人たちに受け入れられるかどうかはわかりませんが、私たちはこれを日本の友人たちのために作ります。
 
 
その後、私たちは大きな計画を持っています。
それは「鍋島」と呼ばれるものです。
 
その「鍋島」のプロジェクトの曲は、すでにもう全曲書かれています。
それをきちんとレコーディングするために、どれだけの年月が必要なのか、今の時点ではわかりません。
 
「鍋島」は、イマリトーンズによる、究極の日本のクリスチャンメタルになるはずです。日本人の魂の奥深くにあるサウンドです。
時が来れば、私たちはそれを世界に向けて鳴らします。
 
どうか、神様の導きが私たちの上にあるようにお祈り下さい。
 
 
 
この時期に、私たちは、
“Revive The World”、”Atomic Live!”、”Jesus Wind”を作りました。
そして、間もなく”Overture”を作ります。
 
“Revive The World”は、おそらくは私たちの「スピリチュアルなロック」の最高点に位置する作品です。それまでに作った”Victory in Christ”や”Japan Metal Jesus”も良い内容のクリスチャンロックのレコードでしたが、”Revive The World”においては、サウンドの面でも、スピリットの面でも、最高の境地に達したと感じました。
 
“Atomic Live!”は、ライブアルバムですが、成り行きでジョークのように作ってしまった作品でもあります。それはつまり「大きなスタジアムでのライブアルバム」のパロディです。この作品は、大きな会場で演奏しているようなサウンドですが、実際には小さなスタジオの部屋で、数人の(大人しい日本の)観客の前で演奏されたものです。それは、とあるライブが急遽キャンセルになり、他にすることが無くなってしまった時に作られました。けれども、それは私たちのベストの演奏をよく記録していると思います。
 
“Jesus Wind”については、何も言うことは出来ません。これは他とはまったく違う作品です。自分でも、どのようにしてこれらの曲を書いたのかわかりません。ただ、これは本当にヘヴィメタルのレコードだということは言えます。私たちは確かにヘヴィメタルバンドですが、どちらかといえばいつも「多彩なスタイルの」メタルバンドでした。ですから、本当にヘヴィなアルバムは作ったことがありませんでしたが、このアルバムは本当の意味でのヘヴィメタルになりました。このアルバムに込めたメッセージが、皆さんに伝わることを願っています。これは私たちにとって「自分はこのレコードを作るために生まれてきた」と言えるようなアルバムです。
 
すべての歌詞は英語で歌われています。
けれども、”Overture”は全曲日本語になる予定です。
そして、「鍋島」は半分が日本語、半分が英語になるでしょう。
 
 
 
今のところは、これでお話はおしまいです。
けれども、このお話はまだ続いています。
 
ぜひこれからも応援していただいて、素晴らしい体験を共にできればと思っています。
 
再度になりますが、本当にありがとうございます。
皆さん全員に、神様の祝福がありますように。
 
Tak “Tone” Nakamine / Imari Tones (伊万里音色)
2017年11月6日
 

 

 

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