音楽と信仰についての独白20161122
さて、私、Imari Tones (伊万里音色)と名付けたバンドにて、ささやかに、かつ小規模ながらに、時代の恩恵でニッチに細く広く、それでも世界を相手に音楽なんぞ作っているわけですが、 このタイミング、この時に、一人の日本人として、一人の日本人のクリスチャンとして、そして一人の日本人の宗教音楽家として、書き記しておきたいことがあります。 それは、いろんなことが手遅れになる前に。また、それを書き記す気力や元気があるうちに。 私は年齢が30歳を越えてからキリスト教徒になりましたので、クリスチャンになってからの時間は、まだまだ浅いと言えば浅いのですが、 近年は、そして特に今年は、キリスト教徒であることに対して、恥ずかしく思うこと、あるいは、苛立たしく思うこと、また、情けなく思うことが、多くなってきた年であったように思います。 それは、何年かクリスチャンやってみて、このキリスト教世界の、良いところだけでなく、悪いところも少しずつ見えるようになってきたということかもしれません。 しかし、かといって、そういった落胆があったとしても、私の中の神への信仰とか、イエス・キリストを信じる気持ちに、まったく変わりはありません。それはすなわち、最初から、僕が信じていたのは神であって、「教会」とかそこにいる「人間」ではなかったからです。 そして、僕が日本人であることをより意識するようになったのは、よくあることですが、やはり音楽を通じて、アメリカ辺りに演奏しに行ったりする中で、自分が日本人であることや、自分の中になんだかある愛国心のようなもの、つまり自分を生み育ててくれた場所に対して、少しでも貢献し、何かをお返ししようというような気持ち。そういったものに気付いていきました。 だから、これは日本人のキリスト教徒だから思うこと、かもしれません。 音楽家としての私の現在位置を書いておきます。 僕らのバンドImari Tonesは今年、重要なコンセプトアルバムである”Jesus Wind”というアルバムを録音制作し、完成させました。発表はおそらく来年になると思います。 これは、日本の歴史をひとつのクリスチャン的な視点から見て描き出した絵巻物であり、自らの信仰のルーツを確認する作品でもあり、また過去だけでなく未来に向けて描き出した「預言書」でもあります。 しかしキリスト教の視点から見た日本の歴史と言っても、様々な視点がありますが、アルバムの中にも「Bushido」(武士道)という曲があり、武士道と言えば、新渡戸稲造がその著書に書き記して世界に広まったように、キリスト教とは西洋の文化、西洋の宗教ではなく、むしろ武士道に代表される日本的な精神、キリスト教の本質に相通ずるような精神風土をもともと日本人は持っているのだ、といった視点の描き方があります。そして、この僕たちの”Jesus Wind”もやはりそのような立場から多分にこのアルバムの物語を鳴らし描いています。 ですから、日本人のキリスト教徒の一人として、世界に対して伝えたいことがあるとすれば、やはりそれは、そのような日本人ならではの精神風土からの意見になるのです。 僕たちは、この”Jesus Wind”の後、僕たちはクリスチャンロックを基本的にはほとんどすべて英語でやってきましたので、この後、ワンクッション、日本語の作品を作った後、自分たちにとっての究極の終着地点である「鍋島」というプロジェクトに取り掛かります。それは、音楽的にはより日本的な面を押し出した内容になり、歌詞は日本語と英語が半々になる予定です。 しかし、この「鍋島」は未完成で終わるかもしれません。 というのは、これをきちんとした形で鳴らし切るのは、今まで10年以上かけてやってきたバンド活動の全部と同じくらいか、あるいはそれ以上に大変な作業になると思われるからです。 ですからこの「鍋島」は作曲しただけで終わるかもしれません。 それはつまり、現代のミュージシャンの言葉で言えば、デモを制作することだけで精一杯かもしれない、ということです。 きちんと鳴らして、バンドで演奏し、きちんとレコーディングして発表する、そういったところまでは、あるいはたどり着けない可能性も十分にあるという感じです。 しかし僕は日本人の魂としての、また僕自身の音楽と信仰の終着地点としての「鍋島」を完成させるためにすべてを賭ける所存です。 そして、たとえキリスト教世界に落胆することが多かったとしても、神への、イエス・キリストへの信仰そのものは少しも揺るぐことはない、それと同様に、やはり僕はどのような音を鳴らし、どのような作品を作ったとしても、やはり私はクリスチャンアーティストなのです。自分の創作行為、生きる行為が、神への信仰を拠り所としている以上、やはり自分はクリスチャンアーティスト以外の何者にもなれないのです。 それは、日本語英語にもこだわらず、クリスチャンミュージックという枠さえもとっぱらって自由に作ったはずの「鍋島」が、やはり自然な形でクリスチャンロックの形で書き上がってしまったことからも、自分自身再確認できました。 さて、私が自分の短い人生の、そのうちの短い何年かで、しかし少なからず真面目に、キリスト教徒として神を信じて生活してみて、また神を信じて創作活動を行ってきて、そしてこの現代社会を眺めてきた上で、自分の狭い見識と偏見の中からではありますが、ひとつ、現在進行形で感じていることがあります。 …