History
of
Imari Tones
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バンド年表タイムライン
(英文翻訳調ヒストリー)

どうも。Imari TonesのTak "Tone" Nakamine (Tone - ナカミネタカヒロ)です。

励ましのメッセージや、サポートをありがとう。

僕たちは、祈り、瞑想し、あるいは単純に未来について考えたり、
今までしてきたことの意味を考えていたところです。
でも時には、過去を振り返ることも大事だ。未来への答えを得るためには。

だから今日は、このおかしなバンド、Imari Tones(伊万里音色)の歴史について話そうと思う。

まず最初に断っておくと、これは、僕の視点から見たヒストリーです。
だからたぶん、他の人に聞けば、違う答えが返ってくるかもしれない。

でも、たぶん、このバンドの歴史について語るのなら、僕はベストな人物だと思う。
なぜなら僕はもう10年以上このバンドをやっているし、
なにより僕がこのバンドを始めたのだから。

じゃあ話をしよう。
このImari Tonesというバンドは、かなり長い歴史があるんだ。
(だから、たぶん、君たちが思っているよりも、僕たちは歳をとっていると思う。日本人は、若く見えるからね。)
僕らの公式なプロフィールでは、Imari Tonesは2004年に公式に結成されたことになっている。
でも実際は、もっと古い歴史があるんだ。

このImari Tonesは、たぶん1998年頃に、僕の個人的な音楽プロジェクトとして生まれた。
でも、その当時は、まだImari Tonesという名前ではなかった。名前はまだ無かったんだ。

どうして始めたか、なんて聞かないでくれ。それは、また別の、長い話になってしまうから。
ただ、ひとつ言わせてもらうなら、僕は、「ロックスターになりたい」なんていうタイプの少年ではなかった。
僕は、音楽ビジネスを信じていなかった。今まで、一度も信じたことはない。

今、このインターネット時代には、音楽業界が崩壊していっているのが誰の目にもわかるけれど、
僕には始めた当初から、そういった事が起こるのではないかと思っていた。
だから、ロックスターみたいには決してなれないことも、最初から僕はわかっていた。
僕にはそういう条件も、そろっていなかったしね。

だから、これは計画したことではなかったんだ。僕の人生計画に反したことだった。
難しい決断であり、そして、僕には選択の余地は無かった。
とにかくも、1998年に、僕は家にある小さなホームスタジオで
(実家には幸い、小さな音楽室があった)、自分の曲を録音制作し始めた。

そして僕自身も、それがなぜなのかわかっていなかった。
時々僕は、理由を知らずに物事を始めてしまうんだ。
そして、たいていの場合、後から理由を知ることになるんだ。


だから、ことImari Tonesの音楽そのもの(録音された作品)について言うのであれば、
それは1998年に始まったと言える。
1998に行ったその最初の録音作品、
僕はそれを、"Through The Garden of Gods"と名付けた。
それは、罪と、苦しみと、その中にある希望についての作品だった。

僕らは後にクリスチャンバンドになったわけだから、テーマとしてはなんとなく辻褄が合っていると思う。
もしその時期の曲が聞きたければ、これがそうだ。
僕は1998年から2001年にかけて、家のホームスタジオで、
4枚の録音作品(アルバム、という呼び方は恥ずかしくて好きではないけれど)を制作した。
それは、"Through The Garden of Gods"、"Prototypes"、 "Kodomo Metal"、"Entering The New World"の4枚だった。

当時はまだバンドではなかったので、ドラムトラックはすべて打ち込みだった。
だけれど、僕は今でも、これらの時期に制作した音楽について、自信を持っているし、
出来には満足している。

特に1999年に録音制作した"Kodomo Metal"(コドモ・メタル)は、
かなりユニークで、若い才能の爆発だった。

その時期の作品から、いくつか。
この曲は正確には1998年の録音ではないけれど、同じアルバムに入っている。
だいたい2000年くらいに、"Imari Tones"という名前が頭に突然浮かんだ。
この名前について少し説明させてほしい。
これが変わった名前だということはわかっているから。

バンドに名前をつける、ということについて、僕は、あまり平凡な名前は選びたくなかった。
他のどこにも無いような名前を付けたかった。
そして、人間によって作られた意味、意味ありげな名前も嫌だった。僕は、始めからそれでしかなかったような、固有のユニークな名前をつけたかった。人によって考えられた意味のある名前じゃなく、ただの偶然でそうなったような名前が欲しかった。たとえば、僕の永遠のフェイバリットであるVan Halenを例に取ると、その名前には、別に意味なんて無い。彼らは、Van Halenだから、Van Halenなのだ。ただのアレックスとエディの苗字に過ぎない。そんなふうに名前を付けたかった。

でも、そんなユニークな名前を偶然に見つけることは難しかった。
不運にも僕の苗字は、そんなにかっこよいものではなかったし、かといって、いかにもヘヴィメタルのような名前は嫌だった。

しかし、ちょっと待て、ユニークで、クールな名前を持った人が、よく見ればすぐ隣にいるじゃないか。
僕はその人に、「僕の音楽に、君の名前を使ってもいいかい?」と聞いて、その人は「いいよ」と答えた。彼女の名前がImariだった。当時の僕のガールフレンドで、今は僕の妻だ。

そう、Imariというのはその彼女の名前だった。
彼女は別に楽器は何も演奏はしないけれど、彼女はこの音楽プロジェクトのカギとなる要素だった。
もし彼女に会わなければ、イマリトーンズは無かっただろう。
もし僕が彼女に出会わなければ、僕はこのバンドを始めなかっただろう。
(そしてたぶん弁護士か何かになっていただろう。)
高校時代の古い写真から作ったバナー画像。 後で触れるが、この"The Wandering Savior"というのももうひとつのバンド名の候補だった。
説明するのは難しいし、理解してもらえるかわからないが、
僕の人生は当時(そう、すごく若かった)、この女の子を取るか、あるいはエリートコースを取るか、といった選択だった。
「この女の子と一緒の人生を選び、その代わりすべてを捨てるか。
それとも、法律家になる夢を選んで、この女の子と別れるか」といった感じだった。
(法律家になるのが僕の少年時代の夢だった。)

ここで、日本の社会が、特に地方において、どんなふうであるか、説明するつもりはない。
だけれど、僕は自分が何と戦っているのかはわかっていたと思う。
それは、愛かお金か、という選択だった。
聖書は、愛とお金の両方に仕えることはできない、と言っているだろう。
僕はたぶん愛を選んだんだと思う。
そういうことだったんじゃないかと思っている。
そして、それゆえに、僕は、音楽に向き合うしか選択肢が残されていなかった。
だから、僕は自分の音楽を始めた。たとえ、音楽ビジネスを信じていなかったとしても。

Imari(伊万里)というのは、クールな名前であるだけでなく、このバンドにふさわしい意味も持っていた。
それは、とても日本的な名前だ。中国の陶磁器である「チャイナ」が国名であるように、「日本」という意味に通じる。
僕らの公式プロフィールに書いてあるように、Imari(伊万里)というのは、日本の古いアートだ。
18世紀の、陶磁器とそれに描かれた絵のアートであり、ヨーロッパに輸出されていた。
日本の古いアートというだけでなく、国際的なアートでもあったんだ。

Imari Tonesというのは、「日本の音」というような意味を隠し持っている。
国際的なマーケットを狙うバンドとしては、ふさわしい名前だと思わないかい?
僕らにはまだ、公式なロゴマークというものがない。
僕は、なぜそうするのか、理由を知らないままでこれらの音楽を作っていた。
僕は、単純に、それが必要なことだと感じたから、それらの音楽を作ったのだ。

しかし、2001年頃には、僕はだんだんと、自分がした選択と、その意味について考えるようになった。
そしてついに2001年に、僕は明確に、この音楽、芸術というものに自分の身を捧げるのだ、ということを決心した。
おそらく「成功」とか「名声」とか、そういうものとは縁がないだろうとはわかっていたけれど、それでもなお、自分は音楽と芸術に身を捧げようと決めたのだ。

それは、僕が、「音楽」や「芸術」の向こうにある真実を信じていたからだった。
先ほど言ったように、僕は音楽ビジネスを信じていなかった。
でも僕は、音楽の向こうにある「真実」は、強く信じていた。
それが、僕がこのImari Tonesというプロジェクト 始めた理由だ。

おそらくはみじめな人生を送ることになるかもしれない、
誰も自分の音楽など気にかけないかもしれない、あるいはお金が無くて死んでしまうかもしれない。
でも選択の余地は無かった。僕は音楽のために死ぬ準備はできていた。

2001年に録音制作した、"Entering The New World"と名付けたアルバムは、そうした決心に基づいて作られたものだった。

僕は、新しい生き方を求めていた。人として、音楽家として。
成功とか、有名になることとかではなく、もっと別のものを。
そういったものよりも、もっと大きな何かがあるはずだと思っていた。
ロックンロールには、そうした世俗的な成功よりももっと大きな意味があるはずだと思っていた。

僕は新しい生き方を欲し、新しい価値観と、新しいルールによって作られる、新しい世界を欲していた。
後に僕は、それらのものを、新約聖書とイエス・キリストの中に見つけることになる。

とにかくも、それが僕がこの作品を"Entering The New World"と名付けた理由だった。
2001年、新しい時代の幕開けであり、インディペンデント音楽の新しい始まりであり、新しい世紀の始まりだった。
これらがその時期に作られた音楽のいくつかです。
2002年に、僕はようやく、音楽を追及するために上京した。
(それまでには、僕は大学を卒業した。その事実から、僕の年齢が推測できるだろう。)

僕はこのプロジェクトを、本物のバンドにしたかった。
3人とか、4人のメンバーからなる、本物のバンドに。そして、ライヴ演奏をしたかった。
そして、他の若いバンドたちのように、成功に向けて活動をしたかった。
僕は、そういった成功からは遠いことはわかっていたけれど、「生き延びる」ためにそれが必要なことだと思っていた。
勝つ、とか、負ける、ということは関係ない。大事なのは、生き延びることだった。

僕は東京に引越し、そして学習塾の講師の仕事についたけれど、すぐに辞めてしまい、そして飲食店などで働きだした。

それから僕はバンドのメンバーを探し始めた。それには何年かかかった。
僕はソロアクトとして一人のライヴをいくつかやり、同時にふさわしいバンドのメンバーを探した。
それは簡単ではなかった。

そして僕はヒッチーというギタープレイヤーに出会った。
彼はHR/HMのギタリストで、ヌーノ・ベッテンコートが好きだった。
僕とヒッチーはすぐに意気投合し友達になった。僕らは、バンドを形にするために協力した。
僕らは、はらっちというドラマーに出会った。
彼はスペシャルなドラマーで、その後何年にも渡り僕と一緒に演奏した。

僕らは、Imariの大学時代の友人であるヲイちゃんをベーシストとしてバンドに加えた。
そして、ヒッチーの勧めにより、僕らは埼玉県の某所にて、一軒家を借りてバンドとして一緒に住むことになった。
それは2003年の夏から秋にかけてのことだった。

野心を持った若者たちが(そのガールフレンドも)、音楽への情熱を共有し、一緒に生活していた。
それはとても楽しかった。短い間しか、続かなかったけれども。
「ヒッチー」と「ヲイちゃん」。彼らはすぐにバンドを去ったけれど、彼らがこのバンドの結成を助けてくれた。
このラインナップで行われた数少ないライヴ演奏の写真。
野心的なバンドメンバーに後押しされ、僕は一ヶ月の間に55曲を書いた。
それは2003年の11月のことだった。
しかし、2つのライヴを演奏した後に、ヒッチーはバンドを去った。
皮肉なことに、彼が僕をバンド結成に向けて後押しし、提案したのに、バンドを一番最初に去ったのは彼だった。
でも彼は、自分自身も才能のあるミュージシャンだった。
彼は、この難しいバンドの中で、僕と才能を戦わせるよりも、自分自身の音楽を追及することを選んだのだ。
その後すぐに、ベーシストである(マルチプレイヤーでもあった)ヲイちゃんも、心身の状態が不安定なことを理由にバンドを去った。


イマリトーンズの歴代のメンバーは、皆、アウトサイダーだった。
どこかしら、この日本の社会から拒否され、息苦しい社会の仕組みに苦しんでいた。
僕らは社会の価値基準に逆らう人たちだった。
僕らは、お互いを深く理解できるけれど、その一方で、問題を抱えることも多かった。
だから、こうした中で「ふさわしい」人物を見つけることは簡単ではなかった。

ヒッチーとヲイちゃんの代わりのメンバーを見つけるのには、もう少しの時間がかかった。
今度は、僕はバンドをスリーピース、つまりトリオにすると決めていた。

幸運なことに、僕はふさわしい人物に出会った。
彼の名前はみねっち。
グラムロックや、70年代のブリティッシュロックを愛するベーシストだった。

そしてここに、ついにバンドは形になった。
Tone - みねっち - はらっち

Toneがギターとヴォーカル、みねっちがベーシスト、はらっちがドラマーだ。
写真左、「はらっち」。かっとびドラミングで、2003年10月から2007年7月まで、長くイマリトーンズを支えたドラマー。
写真右、「みねっち」。グラムロックのスタイルを持つベーシスト。鋭い本能を持つ、最高のロックベーシストだった。
イマリトーンズが、本物のバンドになった瞬間だった。
2004年の3月、僕らはトリオとして最初のライヴをやった。
(そして、その後、満開の桜の下でパーティーした。)
僕の視点からいうと、これこそがImari Tonesがついにバンドとしてスタートした瞬間だった。
僕の、絶望的な個人的な音楽プロジェクトは、ついに本当のバンドになったのだ。
だから、僕は公式のプロフィールの中で、バンドは2004年に結成された、と言うようにしている。

それはイマリトーンズの、最初の黄金時代だった。
トーン-はらっち-みねっち、この3人のコンビネーションは完璧だった。
はらっちは日本のオルタナティヴロックや、アンダーグラウンドロック、そしてポストパンクが好きだった。
みねっちは、グラムロックや、古いブリティッシュロックが好きだった。
そしてToneは、メタルとポップの中間地点あたりにいる人間だ。

曲を書いたのはToneだったけれど、僕らはこれらの要素をすべて混ぜ合わせようとした。
ハードロック、オルタナティヴ、グラム、パンク、ポップ、これらのものを一緒にして、ベストなものを作ろうと試みた。

ソングライティングは非常に快調だった。
僕らは代表曲である「丘上烈風」、「虚数少年2」、1998年に制作した楽曲の再録である「Must Be....」、「That's why i love you」、そして今でもライヴでは強力なレパートリーである「Winning Song」のオリジナルバージョンを演奏した。

僕らは、「光のヒーロー」(Hero of the Lights)と呼ばれるアルバムを作り上げた。
僕はそれを、今でもこのバンドのもっとも良いアルバムのひとつだと信じている。
少なくとも、「日本のポップバンド」という観点では、このアルバムはバンドの歴史の中で、最高のものだ。

そして、この時期は、イマリトーンズが、日本国内のロックシーンの注意を引こうとした、唯一の時期だった。

この「光のヒーロー」から、いくつかの楽曲が、これだ。ベストなポップアルバムだ。
2004年から2005年にかけて、僕らは東京でたくさんのライヴを行った。
ライヴハウスと呼ばれる一般的なミュージックヴェニューで演奏した。
(日本ではミュージッククラブをそう呼ぶのだ)

それらはすべて「Pay To Play」つまり、バンドがノルマのお金を支払って演奏するヴェニューだった。
しかし、東京においては、それが知っている唯一の方法だった。
僕らは月に2度、他の成功を求めるバンドたちと同じように、それらのライヴを行った。
しかし、実際には、観客からの反応は必ずしも常に良いわけではなかった。
その理由を説明するのは難しいが、僕らは単純に「違った」のだ。
僕らは「同じ」になろうと努力したが、できなかった。

しかし、2004年は、バンドにとって間違いなく良い時だった。
それはイマリトーンズにとっての春の時代だった。
僕らは、この方法は正しくないんだ、ということを学んだだけだったけれど、成功のためにベストを尽くした。
そして、音楽的には、僕らはとてもよくやっていた。

僕らはこの2004、2005年の東京でギグをして回った時代から、多くのものを学んだ。

これらは、この時期からのいくつかの写真だ。
実りの多いそれらの時期の後に、ちょっとしたことが2005年の初めに起こった。
はらっちが、バンドを去ることを決意したんだ。
Tone-はらっち-みねっちのトリオは、2005年の3月に、このラインナップでの最後のギグを行った。

はらっちは、ヲトズレプラスというもうひとつのバンドに加入、専念することになり、僕は彼に、「いつでも戻って来いよ」と言った。
実際に一年後に、彼は戻ってくることになったのだけれど。

とにもかくにも、はらっちは2005年の春に一度バンドを去り、そして栄光のトリオは終わりを告げた。
僕はバンドを運営することはなんと難しいのだろう、と考えていた。

僕は前向きに物事を考える人間だ。
だから、起こったことを悔やむ代わりに、前向きに状況を捉えることにした。
今やバンドは無いのだから、ライヴをすることはできない。
しかし、その代わりに、レコーディングの時間はたっぷりとある。
では、今しかできないことをやろう。


僕は2005年のうちに、50曲をレコーディングすることにした。
そう、1年足らずのうちに50曲だ。クレイジーに聞こえるかい?
でも、それらの曲はあったんだ。
高校時代に書いた曲とか、2003年11月に書いた曲とか、その後に書いた曲とか、
とにかく曲はたくさんあって、僕はそれらをレコーディングしたかった。

僕はいつも、インディペンデントに自分たちで録音制作をしてきた。
それは主に、予算が無いからだけれど、同時に、そうすれば自分たちのサウンドの面倒をしっかりと見ることができるからだ。
僕らはその方が、情熱の無い雇われエンジニアを使うよりも、よほど良い結果になることを知っていた。

僕らの共同生活していた一軒家の3階はスタジオになっていた。
僕らは、ドラム以外は全部そこでレコーディング制作した。ドラムだけはリハーサルスタジオに行って録音した。

そういうわけで2005年のうちに、僕は50曲をレコーディングした。
僕はギター、ベース、ドラムス、すべて演奏した。
元ドラマーで、それでも良い友人であるはらっちにもバックグラウンドヴォーカルを手伝ってもらった。
その他の友達にもバックグランドヴォーカルを手伝ってもらった。

それらの50曲の中でも、僕が高校時代に書いた曲たちはとても重要だった。
それらの曲は僕には重要な意味を持っていた。
多くのアーティストがそうであるように、10代の頃の情熱と、新鮮な感性は、かけがえのないものだ。
それらはもっとも純粋なメッセージであるからだ。
僕はそういう曲を、もう二度と書けるとは思わない。
それらの楽曲の録音制作は、僕の人生の中でいちばんやりたいことだった。


そんなわけで2005年、僕は50曲を、ほとんど自分だけの手によって録音制作し、それらは、「異能レース」(Heterogenious Species)、「無責任なメシア」(Reluctant Savior)、「Color of Hers」、「fireworks」と名付けた4枚の作品となった。

これらが、それらのアルバムからのいくつかの楽曲だ。

ひとつ言わせてほしい。
僕らは、今はクリスチャンのハードロックバンドとなり、英語で、インターナショナルな市場に向けて音楽を演奏している。
しかし、その前に、この1998年から2005年にかけて作ったものこそ、僕のいちばん大切なメッセージだ。
日本語で書かれ、日本の生活を描いた、日本人としてのネイティヴなアートだからだ。
そんなわけで、今や言いたいことはすべて言った。
一番大事なメッセージ、それらを、すべて作品にこめて制作した。

僕が最初に思ったことは、「これで辞めることができる!」だった。 僕はいつも、音楽をやめたいと言ってきた(そして今も言っている)。
なぜなら、バンドをやるということは、とても大変だからだ。
成功のチャンスはほとんど無いし、音楽業界はどんどん衰退している。
僕は、単純に自分の使命から逃げるわけにはいかないから続けているだけなのだ。
だから、自分の使命さえ果たしたら、僕はいつでも辞めたいと思うのだ。


だから僕は、これらのレコーディングをやり終えたとき、音楽をやめることを考えていた。
未来のことを考え、余生をどうやって過ごすかを考え、そして、音楽家として、どうやって誇りある死を迎えるかを考えていた。

コックになってもいいかもしれない。
地方の政治家になれるかもしれない。
外国に住んでもいいかもしれない。さよなら東京、さよなら日本。

しかし、現実にはそうはいかなかった。 2005年の終わり頃、ちょうど50曲の録音制作が完了する直前、僕は、Tak Yonemochiという人に出会った。僕は、今でも、それが起こるべくして起こった運命だと思っている。

Tak Yonemochi氏は、音楽ジャーナリストであり、プロデューサーであり、Air Pavilionというバンドのギタリストでもあった。
そして、驚くべきことに、僕は彼のことを、ギターを始めた最初の日から知っていた。
僕は彼の文章を「ヤングギター」で読んでいたし、ギターのカタログで、テレビ番組で、彼の姿を見ていた。
そして、僕はそれらのことをなぜだかよく覚えていた。

音楽業界の人にはよくあるように、Yonemochi氏が、果たしていい人だったのか悪い人だったのかは今でもわからない。
しかし、少なくとも音楽的には、それは正しい出会いだった。僕らは、たくさんの共通点を持っていた。

そしてこの出会いのために、僕は音楽を辞めるタイミングを失った。
Yonemochi氏はこのバンドに対するプランを僕に話し、そして彼はこのバンドをプロデュースすることになった。
そして、驚くべきことに、バンドが戻ってきた。
ドラマーであるはらっちは、所属していたもうひとつのバンドが解散して、戻ってきた。
残念なことにみねっちは戻ってこなかったが、しかし僕らは、馬場くんという優れたベーシストをすぐに見つけることができた。

そして僕らはYonemochi氏と一緒に、またもやレコーディングを始めた。
しかし今回はインディペンデントな録音ではなく、プロフェッショナルなレコーディングだ。

イマリトーンズは再び動き出した。
僕らはYonemochi氏と、2006年から2007年にわたり一緒に作業した。
しかしその2年弱の間、バンドはYonemochi氏の支配下にあった。
それは僕のバンドではなく、Yonemochi氏のバンドだった。
それは、実のところ、決して楽しいものではなかった。
2006年、東京のスタジオでのレコーディング。左から、 Tone、馬場くん、はらっち。
あるいは100パーセントの良い人ではなかったかもしれないが、しかしYonemochi氏は、ギターとそのサウンドメイキングについては、いつでも正しかった。
僕は彼から、多くのことを学んだ。

また彼は、ロックに対する、深い知識と洞察を持っていた。
彼は有名なロックジャーナリストであったから、たくさんのロックの歴史のレジェンドたちにインタビューしたことがあるからだ。僕らは彼からいろいろなことを学ぶことができた。

彼は僕らの曲を、アナログの機材でレコーディングした。
そう、テープだ。それはいい音だった。太く、あたたかい音だ。
Pro Toolsが幅を利かせるこの時代に、アナログレコーディングは、ミュージシャンの夢のひとつだ。
また、彼はギターのレコーディングに際して、BognerのFish Preampを使わせてくれた。それも、とても良い音がした。

Yonemochi氏に出会う前は、僕らは、ポップ-ハードロック-オルタナティヴ-パンクバンド(あるいは、それに似た何か)といった具合だった。
しかし、氏に出会ってからは、僕らは、本来のルーツに立ち返り、もっと本格的なハードロック、ヘヴィメタルのバンドになっていった。そう、1980年代のスタイルだ。


僕らはYonemochi氏と6曲をレコーディングし、その後、大きなことが起こった。
彼は僕らをドイツに連れていったのだ。
そしてドイツで僕らは、世界的に有名なプロデューサーと一緒に仕事をした。
彼の名前はサシャ・ピート(Sascha Paeth)。元Heavens Gateのギタリストであり、成功したプロデューサーとして、Angra、Edguy、Kamelot、Rhapsody、Avantasiaのような有名なヘヴィメタルバンドをプロデュースしている。興奮したかって?そりゃそうさ。


たったひとつの皮肉は、サシャ・ピート氏は「シンフォニックメタル」あるいは「メロディックスピードメタル」といった分野のプロデューサーだったことだ。
それらは、イマリトーンズのスタイルではなかった。
イマリトーンズはどちらかというと、アメリカンハードロックのスタイルを持っていたから。
そして、実を言うと僕はジャーマンメタルとか、シンフォニックメタルというのはあまり好きではなかった。
だから、サシャのネームバリューは、僕らのスタイルでは、商業的に見て、完全に効果があったとは言い難かった。
それだけが唯一の皮肉だった。

しかし、疑いもなく、サシャ・ピート氏は素晴らしいプロデューサーだった。
2006年の9月から10月にかけて。
聞いた話では、それはKamelotのレコーディングの最中だったという。
彼らがスタジオから離れている期間を利用して、僕らはWolfsburgにあるサシャのGate Studioで、3曲をレコーディングした。

それらは、「Karma Flower」、「Iron Hammer」、「Skies of Tokyo」という楽曲だった。 ちなみに「Iron Hammer」というのは、僕が高校時代に書いた楽曲のひとつだった。
それは、単純に残り物だった。2005年の録音制作でも、僕はその曲をレコーディングしなかったのだから。
まさかそれがこれほど強力な曲になろうとは、思ってもみなかった。
僕らは、今でもこの曲をライヴで頻繁に演奏しているのだから。

偉大なプロデューサーのおかげで、これらの3曲は素晴らしい仕上がりになった。
これらは今でも、僕らの楽曲の中で、もっとも人気のある曲たちだ。
しかし一方で、根っからのインディペンデントバンドである僕らは、ちょっとしっくりこない部分も感じていた。


これらはドイツでのレコーディングからのいくつかの写真だ。
2006年のImari Tonesと、世界的プロデューサーSascha Paeth、
そして日本のプロデューサーTak Yonemochi氏。
Imari Tones with Sascha Paeth, Miro (Heavens Gate, Avantasia), Tak Yonemochi, and Amanda Somerville (Avantasia, Trillium, etc)
その後代表曲のひとつとなったIron Hammerは、Toneが高校時代に書いた曲のひとつだったが、
この時ドイツでレコーディングされた。
ドイツから戻ってきた後、僕らの手元には、ドイツで録音した3曲と、東京で録音した6曲があった。
そして僕は、「Winning Song」の日本語バージョンを歌い、これで10トラックになった。

僕らはその10曲をまとめて、「Japanese Pop」というアルバムを作った。
これをPopと呼ぶのはおかしいということはわかっている。
なぜって、実際にはその中身はハードロックなんだから。
でも、僕はその名前が気に入っていた。

「Japanese Pop」でやったほとんどの曲は、再録音、過去の曲のリプライズだった。
「光のヒーロー」や「異能レース」、「Color of Hers」でやった曲たち。
僕らはそれを、英語で、より良い機材と録音でやり直した。
「Iron Hammer」と「Skies of Tokyo」のみが、純粋に新しく書かれた、あるいは初めて録音された曲だった。


しかし、僕はこの「Japanese Pop」の出来に、100%満足してはいなかった。
理由のひとつは自分のヴォーカルだ。
僕とYonemochi氏の関係は、完璧というわけではなかった。
それが僕の精神に悪影響を与え、僕はナーバスになり以前のようにうまく歌えなかった。
もうひとつの理由として、さらには僕はこの当時、歌い方を変えようとしていた最中で、どのように自分の声を使っていいか確信がもてなかった。
だからこの「Japanese Pop」は、僕たちのキャリアの中でほぼ唯一のプロフェッショナルなレコーディングであるけれど、皮肉なことに僕のヴォーカルのパフォーマンスはバンドの歴史の中で最悪のものだった。

しかしその一方で、この「Japanese Pop」は、僕らのキャリアの中で最高の楽曲もいくつか含んでいる。
「Karma Flower」は、僕らの歴代の楽曲の中でも最高であり、サシャ・ピート氏はこの曲で素晴らしい仕事をしてくれた。
この曲はもともと「初春恋風」と呼ばれる、「fireworks」に収録された、もっと日本的なサウンドの儚い雰囲気の曲だったのだが、サシャはこの曲をもっとメジャーなビッグロックの曲にしてしまった。

ささきあい氏によって作られたアニメーションビデオの効果もあって、この曲は僕らの楽曲の中でも最も人気がある曲のひとつだ。
また、「Winning Song」(日本語バージョン)は、僕らがYonemochi氏と一緒にレコーディングした最高の曲というだけでなく、イマリトーンズの歴史の中でもベストトラックだと言える。
僕のVan Halenスタイルのリフと曲の構造、歌のパフォーマンス、バックコーラス、テクニカルなギターソロ、そしてアナログのウォームなサウンド、すべてが収まるべき場所に収まった。
バックコーラスは実はToneの妹であるMizukiによって歌われている。
この曲はとてもパワフルで前向きなメッセージを持っている。
この曲こそが、僕が少年時代にずっとやりたいと夢見ていた曲だと言える。
僕らはYonemochi氏と一緒に一生懸命に取り組んだけれど、日本のレコード会社の注意を引くことには成功しなかった。
たぶんこの変化の激しい音楽業界の中では、Yonemochi氏の名声もうまく機能しなかったのだろう。
そして前述のとおり、サシャ・ピートの名声も、僕らのアメリカンハードロックの音楽スタイルでは十分に効果を持たなかった。

そうした理由から、Yonemochi氏はもうひとつのことを僕らに提案した。
彼は僕らをアメリカに連れていったのだ。
Yonemochi氏自身も、フランスのMIDEMでアルバムの契約を獲得した経験があるので、彼はこうした音楽業界のカンファレンスに行って、世界中から集まる音楽業界の人々に会うべきだと主張した。
そして、アメリカで最大の音楽カンファレンスは、South By South Westと呼ばれるものであることを知り、僕らはそこへ、テキサス州オースティンへ行ったのだった。

しかし実際はそこへ行ったのはバンド全員ではなく、ただ僕とプロデューサーであるYonemochi氏だけがテキサスへと赴いた。
正直なところ、僕は興奮していた。少年時代からアメリカンロックが好きだったけれど、ついに初めてアメリカへ行けるのだ。それは2007年の3月のことだった。

そういったわけで、テキサス州オースティン、SXSW(サウスバイサウスウェスト)、それが僕の初めてのアメリカだった。
実際のところ、SXSWはYonemochi氏が予測していたものとは少し違ったため、僕らの「ビジネストーク」はそれほど上手くはいかなかった。

SXSWはMIDEMとは違い、もっとライヴが中心のフェスティバルであり、
またそれは、インディーズの祭典でもあった。僕らは何人かの音楽業界の人物、重要人物も含めて、出会ったけれど、実際のレコード契約には結びつかなかった。


けれどもその一方で、僕はこのSXSWのすべてに非常にぶっとび、刺激を受けていた。
6thストリートや、その他の場所で見た、すべてのライヴパフォーマンスに刺激を受けたし、見聞きした会議やセミナーやパネルにも刺激を受けた。
彼らは激しく変わりつつある音楽業界について話していた。
僕らは大きな変化の時代にいる。
そしてそれはどんどんと、インディペンデントミュージシャンのための世界になりつつある。
新しい時代だ。誰もが未来を探しているけれど、誰も未来がどんなであるかを知らない。
僕は、ヴェニューやバーや、音楽をめぐるすべての環境にショックと刺激を受けた。
なぜならそれは日本とあまりにも違ったからだ。
そして、なにより重要なこととして、僕は生涯見た中で、いちばんものすごいインディバンドを目撃し、そしてぶっとんだ。

(もし、それがどんなバンドか知りたければ、これがそうだ。
http://www.plusmin.us/


そして僕は思った。
「ワオ、僕もこれをやらなきゃ。この場所へ来て、僕も演奏しなきゃ。たとえ何年かかってもいい。僕はこの場所へアメリカへ、オースティンに来て、そして演奏するんだ。」
そんなわけで僕のSXSW2007の体験は、ビジネス的には必ずしも成功しなかったけれど、
僕にとってはかけがえのない貴重な経験になった。

そのついでに、僕は6th Streetで、一人で、エレクトリックギターとポータブルアンプを使い、ストリートパフォーマンスを行った。
非公式ではあるけれど、僕のアメリカでの最初の演奏だった。僕は30分の間に30ドルを稼いだ。
悪くないだろう?
SXSW2007から戻ってきて、しばらくの間僕はYonemochi氏と一緒に作業をしていた。
しかし、結局はついに氏と袂を分かつことにした。
Yonemochi氏との日々は素晴らしいものだった。
氏はロックジャーナリストで、ほとんどのミュージシャンは友達だったから、僕らは氏から、聞いたこともないようなロックミュージシャンの裏話を聞いた。
彼は僕らにアナログレコーディングをさせてくれたし、ドイツで有名プロデューサーとのレコーディングも体験させてくれた。そしてテキサスにも行くことができた。

それは、僕を経済的に借金を負わせる結果になったけれど(そして、僕はまだその借金を返している)、僕は彼とのこれらの旅路は必要なことであったと思っている。

僕は彼から多くのことを学んだ。僕は人生の中で、師と呼べる人を何人か持っているけれど、彼は僕にとっては、良い面も悪い面も含めて、まさにうってつけの師匠だった。

なによりも、イマリトーンズに、海外進出を狙えと言ったのは他でもないYonemochi氏だった。
彼は僕に英語で歌わせた。
彼に出会う前は、僕は日本語で歌っていたけれど、彼に出会ってからは、僕は英語で歌っているのだ。
そして彼が僕をオースティンのSXSWに連れていったから、僕は、たとえ何年かかろうと、アメリカで音楽を演奏しようと決心したのだった。


だから僕はYonemochi氏には感謝している。
そして彼の音楽も僕は評価している。
彼は、日本の音楽マーケットに魂を売ることなく、いつでもインターナショナルなマーケットに挑戦しようとしていた。
そして本物のハードロックをやろうとしていた。Yonemochi氏のバンドAir Pavilionは、80年代の終わりから90年代の前半に、3枚のアルバムを日本でリリースした。
4枚目のアルバム、「The River / The Life」は、2000年にヨーロッパでかなりのヒットとなり、13万枚以上を売り上げた。
(皮肉にも日本ではこのことはほとんど知られていない。)
僕はYonemochi氏がAir Pavilionのプロジェクトに再び取り組み始めたと聞いている。
氏の音楽のキャリアに祝福があるように祈っている。


僕がYonemochi氏と袂を分かった理由は、インディペンデントなミュージシャンとして歩きたかったからだった。
僕がSXSWで見たものは、インディペンデントスピリットであり、そして音楽業界のトレンドだった。
音楽を動かすのはもはや大きなレコード会社ではなく、音楽を作るのはインディペンデントなミュージシャンたちであり、ローカルの音楽シーンだった。
ロックンロールはもはや大きなアリーナではなく、小さなバーやクラブに、(もちろん教会に)、そしてストリートにこそあった。
僕はその基本に立ち戻りたかった。バンドが小さくたって気にしない。
たとえ無名のローカルバンドであっても、僕は満足だ。だから、自分の小さなローカルバンドを始めよう!

だから僕はそうすることにした。僕は、ついに長年のドラマーであるはらっちと別れた。
なぜなら彼は今や結婚して、地元に帰り、家族のために働きたいと思っていたから。
彼は幸福だった。そう、彼は彼の答えをロックの中に見つけたのだ。
僕もそれをうれしく思った。彼はこのバンドにおける彼の使命を果たしたのだ。
彼はバンドから「卒業」した。

2004年から2005年のベーシストであるみねっちにも同じことが言える。
彼はYonemochi氏との旅路には参加しなかったけれど、彼がバンドを去った後も、僕は彼と友達だった。
彼も、そのすぐ後に結婚した。彼も彼の答えをロックの中に見つけたのだ。僕もそれをうれしく思う。

馬場くんに関しては、きれいな別れとはいかなかった。
これは、イマリトーンズの歴史で唯一の、完璧に友好的ではない別れだった。
僕は、彼のことを、これからの「ローカルな」バンド活動には合わないだろうと思って、「解雇」したのだ。
彼はとても良いジャズベーシストで、ジャズの分野に明るい未来があった。
おおむね、トラブルの理由はコミュニケーションの単純な不足だった。
彼のジャズの分野での忙しさもあり、僕と馬場くんの間には十分なコミュニケーションがなかった。
結局、彼はどちらかというとバンドの一員というよりはセッションプレイヤーの立場だった。
しかし、彼が本当に優れたミュージシャンであったことに間違いはない。
彼は真面目な人間で、音楽に対してとても真剣だった。
彼は僕らのアルバム「Japanese Pop」でとてもよい仕事をしてくれた。
だから僕は馬場くんのキャリアに祝福があるように祈る。今頃は大きなジャズのショウで演奏しているかもしれない。
2007年7月、Tone-馬場くん-はらっちのラインナップでの最後のライヴ
そんなわけで僕はゼロに戻った。スタート地点で、何も持っていない。
2007年の7月、僕らはこのTone-馬場-はらっちのラインナップでの最後のショウを行い、そして別れた。


Yonemochi氏と作業していた2年間で、3度のライヴ演奏しかしなかったことは言っただろうか?
僕らはこのTone-馬場くん-はらっちのラインナップでは、3度のライヴパフォーマンスしかしていない。

そのひとつは、2006年10月に行った、僕自身の結婚パーティーだった。
そう、僕はようやく、長年の恋人であるImari嬢と結婚したのだ。
このバンドと同じ名前をもつその人だ。出会ったとき、僕は17で、彼女は15だった。
(だから「Karma Flower」の歌詞は完全にフィクションだ。そんなにロマンティックなわけではないのだ。)

そのパーティーで僕らは自分たちの音楽を演奏し、友人たちとも演奏し、もちとんYonemochi氏とも演奏した。
自分の結婚式に、日本のロックの伝説がいるなんて、そう、それはとてもクールだった。
なんにせよ、ライヴショウをあまり行えないことも、僕がYonemochi氏と、そしてこのラインナップと、袂を分かった理由のひとつだった。


僕は新たにバンドのメンバーを探し始めた。
そんなに期待はしなかった。別に「プロを目指す」わけではないのだ。
大きな夢を追うつもりはなかった。ただのありふれたローカルバンドをやりたかった。

そして僕はManzo氏に出会った。
Manzo氏は、既に中年の域に差し掛かった、熟練したドラマーで、きちんとした仕事を持ったきちんとしたサラリーマンだった。
しかし彼はロックにのめりこんでおり、そしてなにより重要なことに、氏は自宅にプライベートスタジオを持っていた。
機材も、アンプも、スピーカーも、ドラムも、マイクも、照明さえもついたスタジオを。

もしこれがアメリカだったら、別に驚かないかもしれない。
アメリカは住宅事情が違って家も大きいから。
アメリカだったら、ガレージや地下室をリハーサルルームとして使うことは一般的だろうから。
でも、日本ではすべて家は小さくて、すべてのものが高価だ。
Manzo氏は、僕と同じように、音楽ビジネスを信じていなかった。
氏は、その代わりに、職業人としてきちんとしたお金を稼ぎながら、ローカルバンドで楽しむことを選択したのだ。
彼はきちんとした職を持ち、そのお金を使ってプライベートスタジオをつくり、機材や楽器を手に入れた。賢い選択だと思わないかい?

しかし、これだけは言わせてくれ、Manzo氏はとても才能のあるドラマーだった。
彼はプロフェッショナルになる道を選ばなかったけれど、彼の音楽への情熱は本物だった。
ドクターの格好をしたDr.Manzo。普段はこんな格好はしていない。僕たちが無理やりさせたのだ。
まもなくすぐに、僕ははっしーという名のベーシストに出会った。
面白いことに、彼は僕が住んでいた同じ町に住んでいた。
彼と会った最初の瞬間、僕は彼が「イマリトーンズ」の人間であることがわかった。
彼は社会から拒絶され、居場所がなく、そして不満を抱えていた。
彼は自分にはもっとできるはずだと考えていて、そのための本物の音楽がやれる場所を探していた。
そして僕は彼にその場所があると伝えた。彼が輝くための場所が。
はっしーに出会った最初の日、彼は僕に言った。「アメリカで演奏したいと思っている」。
そして僕は答えた。「たぶんできると思う」。
そして彼はバンドに加わった。
2007年のウェブサイトのバナー画像。左から、Dr.Manzo、Tone、はっしー。
この時期から、「伊万里音色」という漢字の表記を使い始めた。
バンドのサブタイトルでもある"The band of Wandering Saviors"の表記も見られる。
記憶が確かであれば、2007年の8月。
僕らは横浜某所のManzo氏のプライベートスタジオにて、リハーサルを始めた。
メンバーは3人とも横浜在住。そう、これぞローカルバンドだ。

最初は、それは本当にローカルバンドだった。週末にライヴをして、それはとても楽しかった。
プレッシャーも無かった。僕らはビジネスとか成功のためにやっているんじゃない。純粋に楽しむためにやっているのだから。

それと同時に、僕は楽曲をMySpaceにアップして、そして、だんだんと良い反応を得ていた。
(当時はまだMySpaceがビッグだった。)
それらの反応はほとんどアメリカからだった。
ときどき、リハーサルの後に、帰り道の電車の中で、僕とはっしーは話した。
「アメリカに行きたくない?」「そうだねー」
そして僕は、こっそりと、Sonicbidsでアメリカのギグやフェスティバルに応募してみたり、そういったことを始めた。
たぶん、日本のバンドとしては、SonicbidsやReverbnationを使い始めた最初の部類のバンドのひとつだったんじゃないかと思う。

そしてそれは2007年の12月のこと。何かが起こった。
ひとつめは、新しいレコーディングプロジェクトのために、僕が曲を書き始めたこと。
Manzo氏は、彼のスタジオにあるレコーディング設備を使い、またレコーディングの技術を学ぶために、オリジナル楽曲のレコーディングを望んでいた。
自分たちの楽曲をレコーディングするというのは、もっとも良いレッスンになるからだ。

そして僕は曲を書き始めた。何かが僕の中で起こり、ギターリフが出てきた。
「Illusions」や「God Has No Name」のリフが出来たときのことは鮮明に覚えている。
それはまさに僕がずっと書きたいと思っていたリフだった。本物のハードロックのリフだった。
僕は自分に向かい「ワオ、まだ僕は曲が書ける。しかも今までに書いたことがないような曲が。」といって興奮していた。


もうひとつの事は、たぶんバンドの歴史の中で起こった、いちばん重大なことだった。
2007年の12月、僕は、東京は原宿にて、アコースティックのギグをやった。
それは、Manzo氏が勧めてくれたからだ。
Manzo氏は、インターネットでそのギグを見つけて、僕に、バンドの宣伝になりそうだから出たら、と勧めてくれたのだ。

しかし、予測しなかったことがそこで起こった。僕はアコースティックのセットを演奏して、悪くない演奏だったと思うのだけれど、その後で、他のアーティストが演奏するのを見ていた。
すると、彼らの中に、クリスチャンのミュージシャンが居たのだ。
そして僕は思った。「なんだ、これは!?」 僕の中で、何かがクリックした。

実のところ、僕が「クリスチャンミュージシャン」について聞いたのは、それが初めてではなかった。
神様はひそかに、ずっと前から、僕の中でゆっくりと準備を進めていたのだ。
そして神様は、正しいタイミングを待っていた。

その約1年前、僕はプロデューサーであるYonemochi氏から、クリスチャンミュージシャンについての話を聞いた。
彼は有名なロックジャーナリストであるから、ロックミュージシャンの友人がたくさん居たのだが、特に80年代のLAメタルのジャンルに友人が多かった。
そして彼は「Stryper」について話してくれた。そう、Stryperも、彼の友人だったのだ。

Yonemochi氏によれば、Stryperのエージェントが、氏の親しい友人らしく、その人物は、Extreme/元Van HalenのGary Cheronのエージェント/マネージメントもしているらしい。なぜならGaryもクリスチャンミュージシャンだからだ。
そして、氏は、ロックの歴史におけるクリスチャンミュージシャンということについて話してくれた。

Yonemochi氏は、その彼の友人であるエージェント氏が、もうすぐ日本に来るが、会いたいか?と僕に聞いた。
僕は無意識に、「会いたい」と答えていた。
なぜそんなに熱心になるのか、自分でもわからなかった。
しかし、「音楽」と「信仰」という組み合わせに、不思議な興味を抱いていた。

面白いことに、Yonemochi氏のバンドであるAir Pavilion、その最大のヒットであるアルバム「The River / The Life」は、クリスチャンアルバムだった。
Yonemochi氏はクリスチャンではなかったが、彼はミュージシャンとして、アルバムのテーマにその主題を選んだのだ。
日本人アーティストによるクリスチャンの内容を持つアルバム、その事実が、そのアルバムがヨーロッパでヒットとなった理由のひとつだと僕は聞いている。

また、僕がYonemochi氏と一緒に「Japanese Pop」に取り組んでいた頃、僕は英語で歌詞を書いたが、知らない間に僕は、「宗教的な」歌詞を書こうとしていた。
知らない間に、神について書こうとしていたのだ。
たとえば「Speechless Speaker」や「New World」といった楽曲で、神や天国について書いているのがわかるだろう、英語の表現は完璧でないにしても。
そして「Karma Flower」では、初めて歌詞の中にイエス・キリストが登場した。Karmaというタイトルも、なにか宗教的なテーマを感じさせる。

だからこれらのクリスチャンのミュージシャンが演奏するのを見たとき、僕はそれらのことを思い出していた。
そしてすぐに、僕は、彼らがお金のためでもなく、成功のためでもなく、彼ら自身のためでもなく、音楽を演奏していることに気が付いた。彼らは、もっと大きな何かのために演奏したのだ。
これが、信仰というものなのか?これがクリスチャンミュージックなのか?
彼らは実際に神様のために音楽を演奏している!

僕が目撃し、感銘を受けたそのアーティスト。僕はそのミュージシャンにとても感謝している。
そのミュージシャンは萩原ゆたかさんと言って、シンガーソングライターであり、彼女は自分の曲を、クラシックギターの弾き語りの独特なスタイルで歌っていた。


ひとつ良かったことは、彼女の音楽はとてもオリジナリティがあり、心からの純粋なものだった。
そうでなければ、僕の注意を引くことはなかっただろうから。もうひとつは、彼女はギタープレイヤーであったこと。クラシックギターではあったけれど、そのスタイルはとてもユニークで、クールだった。僕自身もギタープレイヤーだったから、それは僕にとってとても良いことだった。 彼女が、それまで出会った中で、最高のインディーズアーティストの一人であることに気づくまでに、それほど時間はかからなかった。
萩原ゆたかさん、横浜、伊勢佐木町にて。 2010.
たとえば僕が音楽を始めたとき。 僕は音楽の向こうにある真実を信じていた。
世俗的な成功よりも、もっと大きな何かがあるはずだと思っていた。
その大きな何かに、自分を捧げようと決心していた。

そして僕は、神様のために音楽を演奏するミュージシャンを見た。
これがクリスチャンミュージシャンというものか。
彼らは、音楽を、より大きな何かのために、音楽の向こうにある真実のために鳴らしている。
そしてそれを心から信じている。

僕は、これこそが、僕が音楽を始めたその日から、探していたものだと気が付いた。
そしてすぐに、僕は少なくともこれは、音楽という表現のもっとも理想的な姿だと思った。
とても純粋な心とヴィジョンを持って、音を鳴らしているからだ。

僕はギグの後で、そのシンガー、萩原ゆたかさんと話し、このクリスチャニティというものについて聞いた。
彼女は、そのことを予想していたと、なぜなら神様の声を聞いて、今日は誰かに会えると知っていたからだと、そう答えた。
それが、僕の音楽が根本から変わった瞬間だった。

その後まもなく、僕は横浜の教会に紹介された。その教会は、VIC (Victory International Church)といった。 僕は神様の導きを感じた。なぜならそのVICは、僕にとってぴったりの教会だったから。
その教会のスタイルは、僕にぴったりだった。
この日本で、僕みたいないいかげんなロックミュージシャンに、ぴったりくる教会を見つけるのがどれだけ難しいと思う?
僕はまったくの偶然によって、正しい教会に行くことができた。神様の導きを確かに感じた。


ひとつ言わせてほしい。たくさんの人が、なぜクリスチャンに、クリスチャンバンドになったのか、と僕たちに聞くけれど、僕たちは、「宗教的に」なるためにそうしたわけじゃない。

僕らは、音楽的な理由でクリスチャンになったんだ。
僕らは、より良いミュージシャンに、より良いロックンローラーになるために、クリスチャンになったんだ。

VICに行ってからすぐ、僕は聖書を、特に新約聖書を読んだ。
そして、そこに書かれているジーザスの姿に魅了された。
ジーザスは、まるでロックンローラーのようだった。
僕は自分の選択が正しかったとわかった。
なぜならジーザスは、地球で最初のロックンローラーだったからだ。
そして、この地上で最高のロックンローラーだったからだ。

「ワオ、これはロックンロールだ。僕は、ロックを究めるために、ジーザスを見習わなければ!」
それが僕の率直な感想だった。
忍者? Imari Tonesのスピリチュアル要素。
Imari Tonesの精神的な面、宗教的な面について話させてほしい。
2008年の初め頃、このImari Tonesはクリスチャンバンドになった。
しかし、それ以前からImari Tonesは神のバンドだったのか? 僕の答えはイエスだ。
たとえ、それを意識していなかったとしても。

多くの日本人と同じように、僕は特定の宗教を信じたことはなかったけれども、スピリチュアルな事柄や、精神的な要素については、いつでも興味を持っていた。
僕の母親はわりとスピリチュアルなタイプの人間だった。
彼女は僕らをお寺や神社のような場所に連れていったし、実のところキリスト教の教会にも連れていったことがある。
だから僕は最初から、比較的、「宗教的な」人間であることは自分でも認めている。

面白いことに、僕が10代の少年だったころ、ハイスクールのローカルバンドで演奏していて、
大きなライヴをしたときに、
「僕はこの音楽を、目の前の観客だけでなく、空の上で見ている神様にも捧げるんだ。なぜって、神様こそが、本当に僕のやっていることを理解してくれるのだから。」
そう思っていた。

だから、クリスチャンではなかったけれど、僕はどこかで神様ということを信じていたと思う。


ちなみに、これが僕の証しのスピーチだ。
前述したように、最初に1998年に自分の音楽プロジェクトを始めたときから、僕は音楽の向こうにある、より大きなものを信じていた。
そして2001年頃に、「Imari Tones」という名前が突然浮かび、僕は自分の人生を捧げることを決意した。

それと同時に、僕には「The Wandering Savior」(漂泊の救世主)という言葉が与えられた。
それが正確に何を意味するのか僕にはわからなかったけど、僕はその言葉が気に入った。
「よし、じゃあ、世界を救うために音楽を鳴らすのね」、それは僕たちの音楽のテーマになった。

実際にバンドが形になった2004年にも、この"The Wandering Savior"という言葉は、バンド名のもうひとつの候補として常に僕の中にあった。
しかし、先述したとおり、何か意味のありげな名前は嫌だったので、僕はこの言葉を、サブタイトル、副題のように使うことが多かった。「Imari Tones、漂泊の救世主」って。なかなかクールだろ?

僕がこの「The Wandering Savior」という言葉が好きだったのは、それが僕とこのバンドの性格をよく表しているからだ。
音楽で世界を救えないことなんて、誰だって知っている。音楽で世界を変えることはできない。
ロックンロールが生まれて50年以上、ロックはほとんどその意義を失ってしまっている。
しかしそれでも、僕らはその理想に挑戦する。

「Wandering」(漂泊)っていうのは、世のどの権力にも属さないことを意味する。
僕らには、泊まる場所もない。頼る物もない。まったく孤独で、インディペンデントな状態だ。
そして、これは自嘲なんだ。僕らにはなんの力もなく、無名で、まったく重要ではない。
それでも、僕らは自分たちと、その音楽を、神に捧げようとする。

2004年に、東京のライヴハウスで演奏していた頃には、僕はよく、「僕らは漂泊の救世主のバンド」と言っていた。それは自嘲のジョーク以外の何物でもなかった。
でも、それが僕たちだった。

そう、僕たちはジョークなんだ。それは、とても大切なことだった。
僕らは、世界を変えることはできないと知っている。世界を救うこともできないと知っている。
それでも、道化のように自分たちを笑いものにしながら、挑戦する。
馬鹿みたいに見えるかもしれないけれど、それこそが本望だ。


僕たちは、クリスチャンロッカーは良い人たちだとは考えていない。
クリスチャンロッカーは、善人だからクリスチャンロックを演奏するわけじゃない。
僕の意見では、クリスチャンロッカーは、役立たずの悪人だからこそ、クリスチャンロックを演奏するんだ。
ロックンローラーっていうのは、基本的に、クレイジーな、ろくでなしだ。
でも、ろくでなしだからこそ、僕らはせめて、何か良いことのために、ロックを演奏しようとするんだ。
ろくでなしだからこそ、ジーザスを必要とする。そうだろう?

僕らはただのクレイジーな人間だ。
だからこそ、「日本最初のクリスチャンヘヴィメタル」なんていうのを名乗っている。
クレイジーだからこそ、こんなことを始めることができたんだ。


僕らはどちらかというと単なる救世主志望のワナビーであって、僕らは取るに足らない存在だし、大して力も持っていない。
でも、クリスチャンになってから学んだには、それこそがまさに、「Jesus Follower」(ジーザスを追いかけるもの)の姿なんだ。

僕らの本質はジョークだ。このImari Tonesという音楽プロジェクトは、本質的にジョークだった。
「音楽で世界を救ってみせる」そんな大仰な理想、それは、人生最大のジョークであるわけだ。

でもクリスチャンロックバンドになってからは、それはジョークではなくて、本当になった。
今、僕らは神を知っている。誰を追うべきか知っている。
誰が世界を変えることができるのか知っている。誰が世界を救うことができるのか知っている。
僕らは今や、本物の救世主から習う生徒なんだ。


この「The Wandering Savior」という曲が、すべてを語ってくれている。
これは僕たちの個人的な歴史であり、僕らのおかしな運命についての曲だ。
僕らがどうやってこの壮大なジョークを遊んでいるかについての曲だ。
クレイジーな音楽家である僕の視点からの証しであり、いつも真実を探して、ついに神を見つけた一人の男の、偽らざる証しなんだ。
そんなわけで僕の音楽はついにふさわしい目的を見つけた。
僕の音楽はついに正しい方向性を見つけたんだ。
クリスチャンになってからは、ソングライティングも変わっていった。


僕の音楽は、いつだって喜びについてのものだった。
なぜなら、そういう音楽こそを愛していたから。
でも、クリスチャンになってからは、喜びが意味する本当のところがわかった。
だから今や僕は喜びを神に表現するために自分の音楽を鳴らすことができる。まるで水を得た魚のような気分だった。

とにもかくにも、僕が持っていた、Imari Tonesの精神的、宗教的な側面、それはついに本物になり、正しい方向を見つけた。
それは音楽的に、ソングライティング的に、必然的な選択だった。


そういったわけで、2008年の初め頃、僕はバンドに、これからStryperみたいに、クリスチャンミュージックをやっていこうと思う、と伝えた。

最初はちょっとぎこちなかった。新しく見つけた信仰のために、自分の中で情熱が燃えていたので、ライヴでもジーザスについて話したりした。ちょっとやりすぎだったかもしれないけれど、自分でも止められなかった。

レコーディングのために書いた曲たちに、僕は神についての歌詞をつけていった。 そして、「Welcome To The School」と呼ばれるアルバムが出来た。クリスチャンバンドになって初めての作品だ。

それはDr.Manzoのプライベートスタジオで録音制作された。
2008年の3月から9月にかけて。
もちろん、僕らはそれを、クリスチャンのレコードにしようとした。

しかしながら、出来上がってみれば、どうやら100%クリスチャンなアルバムというわけにはいかなかったようだ。
僕は、よくある典型的なワーシップのアルバムみたいにはしたくなかった。
もっとリアルな、この世俗的な現実世界での人間と神様の関係を描いたアルバムにしたかった。


認めざるを得ないこととして、僕はどちらかといえば、「宗教はいらない。ジーザスが欲しいんだ。」というタイプのクリスチャンだ。
「すべての宗教の枠組みをぶっこわせ、そうしたら純粋にジーザスを見ることができる」というような。
なぜなら僕は基本的に物事を破壊するのが好きなロックミュージシャンであるから。

だから僕は、「すべての宗教の根本は同じだ、しかしすべての壁を取り払えば、イエス・キリストこそが本物の神だとわかる」というアプローチを取り(God Has No Nameという曲)、

そして「信仰」だけでなく、「疑い」にもフォーカスを当て、なぜなら本当に信じるためには、
疑いにも向き合わなければいけないから、

そして「イリュージョン-幻影」について歌い--なぜならこの世界には、神や宗教について、人間によって作られた多くの幻想、イリュージョンがあり、本物の神を見つけるためにはそれらのイリュージョンを打ち破らなければいけないから(Illusionsという曲)

そして選択する力を持っているのは君自身で、神と共に生きるか、神から離れて生きるか、それを決めるのは君である。破滅することさえ自由である。
そして神は人間を愛しているからこそ、その自由を与えたのだと。(Freedoomという曲)

また僕は、自分の個人的なロックに関する信条すら歌った。
それは、ロックンロールは神様からの贈り物で、神様は人間の心を解放するために、僕らにロックを与えたのだと。
そして心を解放することによって、神は僕たちに真実を見つけ、精神的に成長するよう望んでいるのだと。(i love you, now ur on your ownという曲)

そしてこれらの創作上の理由によって、僕はこのアルバムを2つのパーツに分けた。
「Our Side」と、「His Side」だ。

前半の「Our Side」では、「疑い」に焦点を当てた曲を含み、この世俗的な世界の中で神を信じるということが意味することを描いている。
「Illusions」や「i love you, now ur on your own」といった曲は、今でも僕たちのライヴ演奏における重要なレパートリーだ。

後半の「His Side」は、もっとワーシップの内容を含み、喜びを歌い、神に感謝を捧げる内容になっている。
前半の「Our Side」がハードな曲が多いのに対し、この「His Side」の方が、ポップでキャッチーな曲が多くなった。
「Only One Wish」(僕らの初めてのワーシップ曲)や「He's Still With Us」のような重要なクリスチャンソングが含まれている。
それらの曲も、僕らのライヴでの重要なレパートリーだ。

こうした理由で、人によっては、このアルバムは100%クリスチャンではないという人もいる。
しかし僕は今でも、このアルバムは、このバンドの歴史の中で、いちばんクールなもののひとつだと考えている。
少なくとも、音楽的な面では、とても優れた内容を持っている。

僕はその意味でこの"Welcome To The School"をとても誇りに思っている。
このアルバムは、主にDr.Manzo氏によってプロデュースされ、彼はこのアルバムのレコーディング作業を通して、レコーディングについていろいろと学んだようだ。
そして彼はとてもよい仕事をしてくれた。このアルバムの前作である、世界的なプロデューサーによって作られた「Japanese Pop」と比べても、このアルバムは良いサウンドを持っていると思う。


これらは、その「Welcome To The School」からの楽曲だ。 そう、これらはクリスチャンソングだ。
このアルバム「Welcome To The School」が完成したとき、Dr.Manzo氏は、バンドを辞めたいと言った。
それは、彼がクリスチャンを好きでないからであった。
彼は、宗教が好きではなく、したがって、宗教的な内容になっていくこのバンドでこれ以上活動したくなかった。

皮肉なことは、2007年の12月に、Dr.Manzo氏が僕にアコースティックライヴへの参加を勧めたゆえに、僕は萩原ゆたかさんに出会い、クリスチャンになったということだ。

つまり、Dr.Manzoがいなければ、僕はクリスチャンになるチャンスは無かったかもしれない。
(日本において、クリスチャンになるチャンスがどれだけあると思う?)
だから僕は氏に感謝している。Dr.Manzo氏があのギグを勧めてくれたおかげで、僕はクリスチャンになれたのだ。

そんなわけで、Dr.Manzoはバンドを辞めたいと言ったのだが、しかし彼は良い人だった。
少なくとも、彼は僕たちが「Welcome To The School」を完成させるまで、一緒に作業をしてくれた。
僕たはいくつものローカルなライヴを一緒にやって、それは楽しかった。
そして彼は「Welcome To The School」で、ドラマーとしても、サウンドエンジニアとしても、とてもよい仕事をしてくれた。
そして、もちろん彼のゴージャスなスタジオも。
それは完全に友好的な別れであり、僕らはお互いに幸運を祈り、別れたのだった。


はっしー、若きベーシスト、彼は、クリスチャンについて、クールだ、と言っていた。
そして、彼は、運命の導きのようなものを感じていると言った。

そういうわけで僕たちは新しいドラマーを探した。
僕はいくつかの教会を訪れ、ワーシップドラマーと話をした。
しかし、どういうわけか、僕は、教会の中からではなく、教会の外で、ドラマーを見つけるべきであるという気がしていた。

なぜなら、教会のドラマーと一緒に演奏すれば、それは「宗教的」になってしまう。
それは、できれば避けたいことだった。

最終的に僕らはリストを絞り、3人のドラマーをオーディションした。
そのうち一人は僕らの教会VICのドラマーで、良い友人だったが、結局僕らは彼のことも選ばなかった。

僕らは「ジェイク」というドラマーを選んだ。
"Jake The Snake" joins the band.
実は彼は、はっしーの友人で、ジェイクとはっしーは、過去にも同じバンドで演奏したことがあった。
なんでも、これで一緒にバンドをやるのは3度目だと言っていた。
お互いをよく知るリズムセクション。理想的じゃないか?

実際のところ、ジェイクは、少なくともこの時点では、あまり完璧なドラマーではなかった。
技術もリズムも甘い部分があった。しかし、彼はスピリットを持っていた。

僕がジェイクを選んだのにはいくつか理由がある。
ひとつには、彼はその時点で完璧でなくても、成長する可能性を持っていたこと。
ひとつには、彼のサウンドは、このバンドによく合うものだったこと。
そして、彼も、この日本社会において、アウトサイダーであるように感じたこと。
そして自分を輝かせる場所を求めていたこと。

少なくとも今日の日まで、この選択は正しかったと思っている。
ジェイクは非常なる奉仕の精神を持っており、彼は他人の幸福のために、自分を犠牲にすることを厭わない。
彼は積極的に人の役に立とうとする人間であり、時々プライドが邪魔をすることがあるけれど、それでも学んでいる。
彼には、このバンドで学び成長する使命があったのだろうと思っている。
霊的に成長するために。だから彼はこのバンドに参加したのだ。だから神は彼をこのバンドに置いたのだ。

僕はジェイクに、このバンドはクリスチャンバンドだが大丈夫か、と問い、彼は「問題ないです」と答えた。
そして、僕らは新しいスタートを切った。2008年の10月のことだった。

僕らは話した。 「Dr.Manzoはクリスチャンが好きじゃなかったから、本当のクリスチャンな活動はできなかった。でもこれからは、本当にクリスチャンバンドとしての活動ができるんじゃないか。」
「アメリカに行ってライヴをするっていう話はどうなった?僕らはいつもそれについて話していたじゃないか」
「そうだね。それだって可能だ。Dr.Manzoはちゃんとした仕事を持ったミドルエイジの人だったけれど、今や僕らは再び、若い野心的なバンドになった。日本にいても何もチャンスは無いし、やってみてもいいかもしれない。少なくとも、やってみたら楽しいんじゃないか。」

そういうわけで、僕らはそれをすることにした。
僕の視点から言えば、それはImari Tonesの第2の黄金時代の始まりだった。
Here we are. Imari Tonesの現在のラインナップ。 Tone -Hassy-Jake.
僕らは東京でのローカルギグをこなしながら、楽曲に取り組んだ。
今や僕らのターゲットは海外なわけだから、僕らは「Japanese Pop」や「Welcome To The School」からの英語の楽曲に取り組んでいたわけだが、東京でのギグでそれらの英語の曲を演奏するのはなんだかおかしかった。

しかし、よりおかしなことに、僕らは観客から良いリアクションを得始めていた。
おそらくは、2004--2005年当時には、僕らはポップ、パンク、オルタナティヴなスタイルの演奏をしていたが、今は、もっと叩きつけるようなハードロック、ヘヴィメタルを演奏している、そのせいかもしれなかった。
それはもっとストレートだし、僕のギターの演奏スタイルにも合っている。僕のギターは輝き始め、僕の声は高く舞い上がり始めた。

僕らは、教会とも組んで動き始めた。はっしーとジェイクも、僕ほど頻繁ではないにせよ、VICに来た。
そして、教会と一緒に、アウトリーチのギグをやったりした。それは楽しかった。
僕らの教会はとても小さくて、日本のクリスチャンの世界にネットワークがあるわけではない。
でも問題なかった。僕らは独立することが好きなインディペンデントバンドだ。
「宗教的」になりたいわけじゃない。大きなクリスチャンの組織に属したいわけじゃない。
小さな無名の教会と一緒に働いて、単純に神様のために働くことができればいい。


そして僕らはついに、バンドとして初めて、アメリカを訪れた。
それは2009年の4月のことだった。
ここでテキサス州ダラスに住む「あかしや番頭」さんについて触れなければならない。
その方はもちろん熱心なクリスチャンだが、その方の協力なくしては、ツアーは実現しなかった。
僕らはこのツアーを「Rock, Faith, Anime Tour 2009」と呼んだ。

僕らはテキサス州オースティン、テネシー州ナッシュビル、そしてニューヨークなどの街で、計9回のライヴを行った。
ほとんどは小さなバーやクラブだった。そう、2007年のSXSWで見たように。
それから2年がたって、ついにそれを実現した。

僕らはとてもよい反響を得た。
もちろん、日本から来たバンドというのは目新しさの点で有利なのはわかっているけれど、しかしほとんどにおいて、日本の観客というのはシャイでおとなしく、静かだ。
だからこのアメリカに来て、僕らはまるで、初めて本当の観客の前で演奏したような気分になった。
ここでは、人々はロックミュージックを理解する、なぜならここはロックンロールが生まれた国だからだ。
僕が書く音楽は、どういうわけだか、日本国内の聴衆よりも、海外のマーケットに向いているようで、それは日本の音楽シーンについてよく知ればわかることだろう。

これが、僕らが最初から直面していた問題だった。
自分たちの音楽を理解する聴衆に会うためだけに、わざわざ海を越えなければいけないとは、とても不運なことだろう。
もし日本の聴衆が僕らの音楽を理解しないのであれば、アメリカやヨーロッパではどうだろう。
インターネットでは海外から良い反応が得られているけれど、実際にライヴ演奏をしたらどうなるだろうか。

僕たちは、常にこの事について試してみるべきだと考えていた。
そして、今、答えを得た。それだけでも、この最初のツアーとしては、十分な成果だった。

Imari Tones - Live at Music City Bar, Nashville TN, 10 April 2009 from Imari Tones on Vimeo.

また、僕らは、アメリカの、ヴェニューや、クラブや、インターネットや、ビールや、楽器屋や、ガレージや地下室など、音楽をめぐるすべての環境にも驚かされた。
説明するのは難しいが、アメリカでは、すべてのものがホットで、ロックスピリットがあふれていた。

そう、日本にはすべてがある。日本の楽器店には、アメリカのどのギターセンターよりも多くの品揃えがあるし、東京には、アメリカのどのヴェニューよりも立派な設備のライヴハウスがたくさんある。最新の設備が整ったリハーサルスタジオがどこの街にもあるし、ついでにタワーレコードもまだ存在している。

しかし日本では、すべてのものが冷たいように感じる。
(もちろん、それを「クール」と呼ぶことも可能だ。もし君が、マンガやアニメや初音ミクなどが好きでさえあれば。)
日本の聴衆を、静かで熱心な世界最高の聴衆と呼ぶ人たちもいるが、それには半分は同意するけれど、しかし日本はAC/DCを認めた最後の国であることを忘れてはいけない。
数年の前まで、AC/DCは日本ではポピュラーではなかったし、今でも他の国ほどではない。
そしてRushは日本ではいまだにポピュラーではない。
人々はJ-Popやヴィジュアル系などに親しみはあるけれど、本物のロックミュージックは日本では未だに一般的ではない。


僕はいつも、日本にはすべてのものがある、と言っている。
大きなビルディング、美味しい食べ物、最新のファッション、ハイテクなコンピューター、未来的なテクノロジー。すべてのものが最高のクオリティだ。
しかし日本には、2つのものが欠けている。ロックンロールとジーザスだ。
それは、もし君が、ロックとジーザスを愛する人間だった場合には、けっこう悲劇的だ。

それが、僕らがインターナショナルマーケットに挑戦しなければいけない理由だ。
自分たちの場所を見つけるために、わざわざ地球の裏側まで行かなくてはいけない理由だ。
僕の意見では、日本はロックとジーザスをいまだに受け入れていない最後の国だ。
そして、僕らはその状況を変えようと必死になっている。

とにかくも、僕らはバンドとして多くのことを学んだ。
百聞は一見に如かずというように、この初めてのアメリカツアーを終えた後、僕らはよりロックンロールを理解していた。
僕たちみたいな日本のバンドにとっては、それはとても重要なことだった。
ツアーの経験は、バンドを成長させるのだ。
そうして、1回目のUSAツアーから戻ってきた僕たち、次は何をする?
もちろん僕らはローカルギグを続けた。そして教会とのアウトリーチのギグも行った。
また僕らは、日本で活動する他のクリスチャンのミュージシャンたちとも友達になっていった。
それは小さなコミュニティだった。僕らはあまり社交的なタイプではなかったが、それらのゴスペルミュージシャンたちと会うことが必要なことだと感じていた。
少なくとも、この日本という国で、彼らがどうやってがんばっているのか、その様子を見ておきたかった。
僕らは横浜の桜木町の駅前で、けっこう大きなアウトリーチのコンサートを行い、サルーキ=、神山みさ、演歌フレンズ、山本香織、WIND、萩原ゆたか、などといったゴスペル系のアーティストたちと共演した。


しかし、最初のツアーの後で行った、最も大事なことといえば、「Victory In Christ」と呼ばれるレコードを作ったことだった。
僕らはもともと、レコーディングを行うつもりはしばらく無かったが、しかし、1回目のアメリカツアーから戻った後、僕は神様の声を聞いた。
そしてインスピレーションが振ってきて、約1ヶ月で45曲ほどの曲を書き上げた。
今回は、本物のクリスチャンロックのレコードにしたかった。
心と魂で、100パーセント、神様を賛美するようなロックを。
それを、僕たちのロックンロールでやるんだ。
Imari Tonesは、いつだって、重力に逆らい、孤独に走る、インディペンデントなバンドだった。
僕らは自分たちのユニークなサウンドを持っている。今こそ、それを神様のためにやるんだ。

予算もないし、プライベートスタジオももう無いのだから、またもや、インディペンデントな録音になった。
しかし、それこそが望んでいたものだった。過去には、僕はいつも、自分たちのレコーディングを、自分たちで行ってきた。「Kodomo Metal」も、「光のヒーロー」も、「Color of Hers」も、そうやって作ってきた。
メジャーな商業的なレコードの音とは、違うかもしれないけれど、でもそこには愛がいっぱい詰まっている。
今、僕はそれと同じことを、英語で、ワールドワイドな聴衆に向けて、そして神様に向けて、もう一度やりたくなった。

僕のソングライティングは、今までで最高潮だった。
すべての作曲の技法を使い、今まででベストのギターリフを作り、今まででベストなソロを弾いた。
リズムの変化を頻繁に使用し、今までもっとも難しいメロディラインを書いた。
そんなことが可能だとは思わなかったが、しかし神様がすべてのインスピレーションを与えてくれた。

僕らは13、14曲ほどを選び出して、数ヶ月かけてリハーサルし、そして2009年の11月から2010年の2月にかけてレコーディングを行った。

そういうわけで、「Victory In Christ」という作品ができあがった。僕たちの心からの贈り物だ。
「Testimony」は、僕らの新しいパワフルなライヴのオープニング曲になった。
それまでは、「Winning Song」が、最高の「飛んでいるリフ」の曲だったけれど、
この「Testimony」はそれ以上の切り裂くようなリフを持つ曲になった。

「Precious」は、ポジティヴな愛のメッセージを持っていて、複雑なリズムチェンジと、他のどこにもないようなリフを持った曲だ。
「God Kids」は、ハードロックと、オルタナティヴギターロックの実験的な融合の結果だ。
「Love Is To Do Something No One Dares To Do」は、僕たちの最高のバラードとなり、クリスチャンの強いメッセージをユニークな方法で伝えている。
「Faith Rider」は、そう、この曲は、最初はジョークに過ぎなかった。アルバムに入れるつもりなどなかった。これは、僕が友人のために書いた、1980年代スタイルのヘヴィメタルのパロディの曲なのだ。
ときどき、人は、冗談のつもりで、いちばん良い仕事をしてしまうことがあるらしい。この、StryperかJudas Priestのようなクラシックなスタイルのヘヴィメタルの曲は、僕ら曲のなかで、最もパワフルな曲になった。


これはインディペンデントな、クリスチャンロックのレコードだ。
僕らのサウンドメイキングは、現代の商業的な音とは違うから、人によっては良くないとう人もいるかもしれない。
しかし僕らは、このレコードを、1970年代や1980年代のようなスタイルで作った。なぜなら僕らは1970年代や、1980年代初期のサウンドが好きだからだ。このレコードには自信があるし、誇りに思っている。
インディペンデントスピリットと、神への信仰と、そしてたくさんの愛が入っている。

しばらくの間、僕は、「Karma Flower」や「Iron Hammer」を超える曲を作るのは無理なんじゃないかと思っていた。
なぜならそれらは、世界的に有名なプロデューサーに作ってもらったものだから。
もちろん、ソングライティングの上では、もっと良い曲はいくらでも作れるが、録音のクオリティのために、これらを超えるトラックを制作するのは難しいだろうと思っていた。

しかし、「Faith Rider」と、「Love Is To Do Something No One Dares To Do」、この2曲は、とあるインターネットのストリーミングのウェブサイトで、「Karma Flower」よりもはるかに良いリアクションをリスナーから得たのだった。
その瞬間、僕は自分のやったことが正しかったことを知った。


これらがその「Victory In Christ」からの曲だ。
2010年2月、僕らはバンドとして2度目にアメリカを訪れた。
ペンシルバニア州のとあるローカルなカンファレンスに出演枠を得たからだ。
そして、僕らはその前後にいくつかのライヴを、東海岸の街でブッキングし、二度目のツアーに出た。「East Coast Tour 2010」だ。

それは、僕らが、本当の意味でクリスチャンロックバンドになった瞬間だった。
僕らは「Victory In Christ」からの曲をたくさん演奏した。
それらの曲を、アメリカで初めて演奏することは、僕たちにとって大きな意味があった。
コンサートというよりは、信仰のストリートファイトみたいだった。
もちろん、僕らはただ音楽を演奏しただけだが、しかし、外国で自分たちの音楽を演奏するというのは、それくらいハードな事なのだ。

この2度目のアメリカツアーで最も重要な瞬間は、ニューヨークのロングアイランドにあるGloryzone Ministriesという教会で演奏したときだった。
たとえローカルな教会での小さなコンサートだったとしても、日本のクリスチャンバンドにとって、ニューヨークの教会で演奏するというのは、特別なことだ。
僕らはベストな演奏をした。そして、神様が触れるのを感じた。
それはショウが終わった直後に起こった。
教会の牧師の一人が、何か祈ってほしいことはあるか、と聞いたとき、僕は、無意識のうちに、「日本のために祈ってほしい」と答えていた。

僕は自分でも驚いていた。その瞬間、僕は自分の中に、祖国への愛があることに気が付いた。
ここでも触れているように、僕らは日本社会のアウトサイダーだ。
だからこそクリスチャンになることができだんだと思う。
日本では、クリスチャンは少数派だし、僕らはミュージシャンとしても、信仰者としても、厳しい時間を過ごすことが多い。
しかしたとえそうであっても、僕らの心の中には、自分たちの国への愛があった。

僕らは、自分たちのゴールは、祖国日本を変えることなのだと気が付いた。
僕らはこれを、日本のためにやっているのだ。だから僕らは、日本のために祈った。
日本の国が変わり、そしてイエス・キリストを知ることができるように。

Imari Tones - Live at Gloryzone Ministries, New York, 21 Feb 2010 from Imari Tones on Vimeo.

それを悟ってからは、すべてはまったく新しいゲームだった。
それは、新しい戦いの始まりでもあった。

2010年には、僕たちは日本でもいくつかの教会で演奏をした。
横浜での街頭の会場でのアウトリーチ演奏も行った。
もちろん、通常のクラブギグも行った。下北沢の良いライヴハウスでも演奏したし、また僕らは、
日本のクリスチャンロックバンドの先駆者でもある「栄光号」とも共演した。
それはバンドにとっては良い年となった。僕らはよりタイトになり、信仰の上でも強くなった。
僕らはいくつかの最高のショウを2010年に行った。


バンドというのは難しいものだ。有名な大きなバンドに居るのも難しいだろうけれど、インディペンデントなバンドに居るというのは、想像できると思うけれど、さらに難しい。
僕たちは歳をとるし、長い道のりを歩いてきた。しかしそれでもなお、僕たちは前に進むことを選んだ。
また新たに、アメリカをツアーする計画を立てたのだ。
なぜなら僕らの主なターゲットは依然として海外のマーケットなのだから。
生き延びるためには、インターナショナルマーケットに向かうしかない。
海外でいくらかの露出や成功を得て、そのバズを日本に逆輸入する、バンドにとって日本の状況を変える戦略はそれしかない。

僕らは3度目のアメリカツアーの計画を立てた。大変だった。
しかし、僕らは、前回よりもより大きなことをやりたいと思っていた。
予算もなかったので、僕らはインターネットでファンドレイジングのキャンペーンを行った。
協力していただいた方には本当に感謝している。


ツアーは、2011年の4月から5月にかけて行うように計画された。
しかし、ツアーに向けて準備している最中、何かが起こった。大変な何かが。

3月11日、東北地方を地震と津波が襲い、福島の原子力発電所の危機が起こった。
幸運にも僕らは無事だったが、しかし状況はへヴィだった。
僕らもショックを受けていたし、国中がショックを受けていた。
僕はいまだに、それがなぜ起きたのかわからない。
おそらく、理由がわかるには、もっと多くの時間が必要なのだろう。
しかし、ひとつ言えることとして、僕は、神様が動いているのを感じた。
同意してもらえるかどうかわからないが、僕はこの日本で、神様が働いているように感じていた。
まるで、僕らの祈りに答えるように。


2010年、僕らは日本に変化がおきるよう祈った。
おそらく、今、日本は変わろうとしている。今までにないくらい急激に。
日本は、世界の経済の拠点となった後、決して変わろうとしない国だった。
その結果、日本は精神的に荒廃した社会となり、多くの人々が自殺をし、多くの人々が精神的に病気になる国になった。
しかし、3月11日の災害の後、日本の社会は動き始めた。私たちの社会はついに変わろうとしている。
しかし、その代償はあまりにも大きい。そう、僕らは変化を望んだ。
でも、このような形で望んだわけではない。僕たちは、とても複雑な思いを抱えた。


これは、起こったことに対する僕の正直な気持ちだ。2011年のツアーにおいて。
日本の僕らは今、大変な時間を過ごしている。日本は、国全体として、大変な時を迎えている。
しかし、ひとつ言えることは、そうであっても、僕らは神と、神の御心に対する、信頼と信仰を失うことはない。

僕たちの3度目のアメリカツアー、僕らはそれを「We are okay, we rock tour 2011」と呼んだ。
僕らは、災害の後、たくさんの人から、大丈夫か、そして、ツアーは予定通り行うのか、と聞かれたため、質問される前に答えを示しておこうと思い、このツアーをこのように名付けた。
しかし後になって、自分たちのことを「We are okay」(おれたちはまあまあだ)なんて言うロックバンドは、なんだか滑稽だということに気が付いた。良い英語のレッスンだった。


なんにせよ、ツアーは、予想をはるかに超える成功となった。
僕たちは37日間の滞在の中で13回のライヴを行い、クラブで、教会で、演奏した。
日本のインディバンドとしては悪くない実績だ。
僕らは各地でかなり良い反響を得たし、CDもたくさん売れた。そして教会ではとても良いコンサートができた。
僕らは日本のとあるクリスチャンの団体と協力して、人々に日本の災害支援のための募金をお願いした。
バンドとしても成長しながら、メンバーであるはっしーとジェイクの神への信仰と信頼も、格段に強くなった。僕たちは今、未熟ながらも、霊的にかなり強められたと思う。

ツアーの最後には、僕たちはテネシー州ナッシュビルで行われた「The Objective」というクリスチャンミュージックのコンベンションに参加した。
それは大きな経験だった。僕たちは、たくさんのクリスチャンバンドと会って友達になった。
そして、他のいくつかのバンドたちと一緒に、ショウケースのライヴを行った。
そして、驚くべきことに、そこで最大の反響と評価を得たのは僕たちだった。
日本のインディペンデントバンドとしては、大きな成果であり、最高の瞬間だった。
多くのクリスチャンバンドと仲良くなり、また、多くのクリスチャンの音楽業界の人々とも友達になった。
将来的に、それらのつながりを生かすことができればと思っている。

先述したように、バンドというものは難しいものだ。
ましてや、インディーバンドであればなおさらだ。
ツアーであれ、レコーディングであれ、毎回毎回、僕は、「これが終わったら辞めよう」と考えたりするし、毎回ライヴをやるたびに、「これが最後のショウになるかもしれない」と考える。

しかし、神様がもうこれでいい、と言うまでは、やめるわけにはいかない。
そう簡単に辞めるわけにはいかないのだ。僕らはThe First Christian Heavy Metal from Japan(日本最初のクリスチャンヘヴィメタルバンド)なのだから。他に、代わりは居ないのだ。


あるいは僕らは成功するためには、アメリカに移住する必要があるのかもしれない。
あるいは日本に居て、この国が変わる手助けをする必要があるのかもしれない。
それはわからない。決めるのは僕らではない。すべてを決めるのは神様だ。


今、僕らは、新しいレコーディングプロジェクトに取り掛かっている。
僕らは2011年に、ツアーの前に既に4曲をレコーディングした。そしてツアーの間に2曲を録音している。
僕らはもう何曲かレコーディングして、フルアルバムにしたいと思っている。アルバムのタイトルはまだ決まっていない。

そして神様は僕に、もう一枚のアルバムのヴィジョンを与えてくれている。
それはコンセプトアルバムで、日本の歴史に関するものだ。
どれだけ時間がかかるかはわからない。調査や研究などの宿題もやらなければいけない。

しかし僕たちは、自分たちの使命をやり遂げると決めている。
少なくとも現時点で、そのコンセプトアルバムのプロジェクトを完了するまでは、成功していようといまいと、僕らは辞めることはないだろう。
そもそも、「成功」とは、何を意味するのだ?
今はインターネット時代だ。音楽業界は変化しており、死んでいるという人もいる。

僕の視点から言えば、このバンドの歴史の中で、「成功だ」と思った瞬間はたくさんあった。
たった一人で優れたレコードを作り上げた、それは成功だ。
10代の頃に書いた曲の大部分をレコーディングして形にすることができた、それは成功だ。
ドイツに行って有名なプロデューサーとレコーディングをすることができた、それは成功だ。
僕らは何度かメンバーチェンジを経験したけれど、皆がそれぞれの答えを見つけて幸せになっている、それはグレイトだ。
音楽のおかげで、クリスチャンになることができた、それは奇跡だ。
自分たちのことを、「日本初のクリスチャンヘヴィメタル」と名乗っている、それは名誉だ。
アメリカを自分たちだけで3度もツアーして、すべて自分たちで計画して成し遂げた、それは夢のようだ。
僕らはここまで生き延びて、まだ音楽を続けている、それは大成功だ。
たくさんの人々がインターネットを通じて僕らの音楽に触れてくれている、それは大大大成功だ。

だから、僕自身は、このプロジェクトを、ここまでのところ、大成功だと考えている。
僕はとても幸せだし、いつでも辞めることができる。
しかし僕が辞めようとすると毎回、神様は次のヴィジョンを僕に見せて、先へ進めと僕に言った。


ここから先の将来がどうなるかはまったくわからない。
しかし、僕たちが何もわからない時は、神様がヴィジョンを見せてくれる時だ。だから僕は心配はしていない。

今これを書きながら、僕は、この先もっと大きなことができる、もっと大きなショウができるような気がしている。
そう僕の中には希望がある。そして、それは、今日を生きるには十分だ。


ひとつ聞いてくれ、僕のミュージシャンとしての個人的な夢は、天国にある神の王国で、ビッグなロックショウをやることなんだ。

きっと最高のパーティーになるぜ!


Tak "Tone" Nakamine
Imari Tones (伊万里音色)
2011年7月20日